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蟹壺(第3話)

■これまでの話

 僕は和室の扉に手をかけ、開けるか、と悩んだ。開けるべきではない、という警報を、僕の好奇心は上回ってしまっていた。蟹の行方が、どうしても気になった。蟹はたまたま和室に入り込んだのではない。何らかの意図をもって和室に入って行った。とすれば、いずみの秘密はこの和室の中にある。
 それを確かめたい。確かめずにはおれない。いずみも、僕に和室の中を見せるために、わざと外に出たのではないだろうか。いや、それは都合よく解釈しすぎか。ああ、見たい。この中を。見るためなら、この身を差し出してもいい。
 よし、開けるぞ、と僕は決心する。扉に手をかけ、ゆっくりと引いていく。扉は存外重く、引くのに力がいる。ずずずっと扉が軋む音に、何かが蠢くようなかさかさという音が混じる。
 冷や汗をかいていた。背中がじんわりと湿っているのが分かる。体の奥底から震えがきて、思わず叫び出したくなった。
 扉を開けて中が窺えるようになると、部屋の中は薄暗いが、洋室の明かりで中の様子は分かった。僕は、危うく悲鳴を上げるところだった。
 和室には布団が敷かれ、一人の男が寝かされていた。異常にやせ細って、腕など僕の半分しかなかろうかという厚みで、頬もごっそりと肉が削げ落ちてこけ、まだ若そうに見えるのに、髪には黒と白が半々くらい混じっていた。
 なにより異様だったのは、部屋の中に足の踏み場もないほど沢蟹が満ちて、蠢いていたことだ。
 よく見ると、布団の中に潜り込む蟹もいて、気になってそうっと布団を剥がしてみると、沢蟹たちはその鋏で男の肉を啄んで食っているのだった。
 男の腕と太ももには皮が抉れ、肉が露出した部分があり、そこから蟹たちは肉を啄んでいく。傷跡からは血が滴り、蟹はその血肉を食らう。ひょっとしたら、さっき踏み潰した蟹からこぼれた赤い汁は、男の血なのかもしれない、と思うと気分が悪くなって、堪えきれずそこに胃の中身をぶちまけることになった。えづきながら吐き、自分の吐瀉物の中にいずみが口移しで食べさせた蟹の足があるのを見て、さらにもう一度吐いた。
「だれだ……?」
 男は震える唇を懸命に動かし、そう誰何した。
「い、いずみに連れられて」
 口を拭って答えると、男がおもむろに目を開いた。その目は光を宿すことを忘れたようなどろんと淀んだ目だった。
「やっぱ、り。悪い、ことは、言わない。早く逃げるんだ」
「もしかして、ライトの傘のメッセージもあなたが」
 男は憐れむように目を閉じて、ゆっくりと首を振った。頭と枕がこすれて鳴る衣擦れの音に、枕から弾かれた蟹が蠢く音が混じる。
「それは、僕じゃない。君は……最初の一人じゃない」
「他にも連れて来られた男が?」
 男は微かに頷く。
「じゃその男たちはどこに」
 男が布団から腕を出すと、腕に食いついていた蟹たちがばらばらと落ちた。震える手で薄暗い部屋の隅を指さす。
 指さした場所をよく目を凝らして見ると、膝を抱えた幼児くらいの大きさの何かが置いてある。ポケットからスマホを出してライトを点けて照らすと、そこに置いてあったのは一つの壺だった。特に変わった意匠もない、茶色の壺。
「壺の中だって」
 ばらばらの肢体が詰まっている、想像したくもない画を想像してしまい、再び吐き気をもよおすが、堪えて立ち上がり、壺の方に近付こうとする。
 すると弱々しい声で答えるのみだった男が突然鋭い声で「近づくな!」と叫んだので、僕はぎょっとして立ち止まる。
「近づいてはいけない。食われる」
 男は怯えたように言う。
 近づくことはやめ、腰は浮かしたまま、壺を凝視した。すると、壺の口から何かが出たり入ったりするのが分かった。蟹だ、と思った。その蟹をじいっと見つめると、戻っていく蟹の腹は一様にみな膨れていて、まるで身ごもっているようだった。出て行く蟹は腹もぺたんと引っ込み、他の蟹と同じだ。蟹は壺の中で何をしているのか、強烈な好奇心の誘惑に駆られた。だが、男の「食われる」という言葉が頭に残り、辛うじて足をその場に留めていた。
「あなたは誰なんです」
 僕の問いに男は右の目だけをうっすらと開けて僕を見た。僕を見るまでに視線が彷徨っていたから、ひょっとすると目もはっきり見えていないのかもしれない。
「僕はもう、誰でもない。ただ、いずみを、この世界に解き放った者」
「どういうことです」
「いずみは、山奥で暮らしていた。そこに、僕がやってきた。そして、彼女は母親を、殺し、僕がその死体を、蟹の壺で始末、した。始めは、山の中で、暮らしていた。だが、魔が差して、いずみを都会に連れて行って、しまった。そうしたら、山の中の、蟹の壺は消え、今の形に姿を変えた。蟹たちは、都会の男の味を、知ってしまった。もう、後戻りは、できない」
 男は疲れたのか、深く息を吐くと、呻いて顔を苦悶に顰めた。どうやら痛覚はほとんど失われているらしかったが、時折思い出したように痛みがやって来るのだった。
「なんであなたは逃げなかったんです」
「僕、にはいずみ、を解き放った、責任がある」
 だからって、と僕は声を荒げ、男が静かに息をしているのを聞くと、声のトーンを落とした。
「あなたに予想できたものでもないでしょう。それに、こんなになってまで」
 男はそこで初めてうっすらと笑みらしきものを浮かべた。
「僕には、もう何も残っていなかった。ぜんぶ、捨ててきた。いずみが、いずみだけが、最後に残った、ものだった。だから、失いたく、なかったのかも、しれない」
 でも、と男は続ける。
「君は違う。いずみに執着しては、ならない。早く、帰りなさい」
 男と視線が合い、僕ははっきりと頷く。すると男の目が見開かれ、怖れに顔が歪んだ。何事か、と思って振り返ると、そこにはいずみが立っていた。
「い、いずみ……」、男は喘ぐように言う。
「二人とも勝手なことしないで。あたしを困らせないで」
 そう言っていずみは蟹などものともせず、踏み潰しながら男の枕元に歩み寄ると、しゃがんで彼の耳に口を寄せて、「あたしを愛してないの?」と背筋がぞくっとするような声で囁いた。
 男の目は怯え切っていた。だが、逃げろということを訴え続けているのは僕にも分かった。だけれども、僕の足は動かなかった。足が床に縫い付けられてしまっているようだった。
「これは仕置きよ。勝手なことしたことへの」
 そう言っていずみは馬乗りになってむんずと無造作に蟹を鷲掴みにすると、男の口の中にそれをねじ込んだ。一度引き抜いて再び鷲掴みにすると口の中に押し込み、蟹が出てこないよう両手で口を押えた。
 男は顔を真っ赤にして呻き、手足をばたつかせて暴れていたが、やがてごりごりと殻が割れ、砕ける音が響きだした。男が生きたまま蟹を食っているのだ。吐き出すことができないなら、後はとれる手段は限られる。そのまま耐えるか、かみ砕いて食ってしまうか。
「あははは、いいわよ、どんどん食べなさいよ。あなたの子どもたちを」
 男の抵抗が弱くなってきたところで、男の上から下り、手を離してやる。すると男は意識を失ったのか力なくごろりと頭を横にして、口から蟹の残骸を吐き出した。それを見て、再び僕は吐いてしまう。
「彼の子どもたちって……?」
 最早水しか出なくなった吐瀉物で汚れた口の周りを拭うと、いずみに向かってそう訊ねた。
「ここの蟹はね、みいんな彼とあたしの子なの。あたしが産んだのよ」
 人間が蟹の子を産むなんて、そんな馬鹿な話はない。だが、いずみが作り話をしているような様子はなかった。彼女は心からそれが事実だと信じているようだった。となれば、帰着する結論は二つしかない。彼女が狂っているか、この狂ったことが事実か、だ。
 僕は命の危険を感じていた。この和室を見る前だったら引き返せたかもしれない。だが、もう見てしまった以上は逃れられない、いずみが逃がすわけがないということは明白なものと思えた。
「なぜ、ここに連れてきた」
 いずみが立ち上がると、部屋のあちこちに散らばっていた蟹がいずみの周りに集まって、黒い塔のように積み重なったものがいくつもできる。それを見ただけでも、いずみの言葉が真実だと語っている何よりの証拠だと思った。
「真悟、かわいいもの。いいご飯になると思ったの。この子たちの」
「彼のようにか」
 違うわよ、とにぱっと笑って首を振ると、「彼は特別」とウインクしてみせる。
「彼はご飯じゃないの。この子たちは彼の血肉を取り入れることで卵を産むのよ。いわばセックスしているのね。でも、あなたは違う。ばらばらにして、壺の中に入れてご飯にするの」
 そう言っていずみは背中に隠しておいた包丁を抜き、僕に向かって来る。悲鳴を上げながら懸命に体を捻って避けた。いずみが振り下ろした包丁は空を切ったが、その場所は僕の喉の辺りだった。本気だ、と体の芯から震えがきて、足がもつれながらも逃げ出す。
「待ちなさいよ。どうせ逃げられないんだから」
 いずみは揺れながらひたひたと追ってくる。
 僕は廊下に出て、玄関に向かって走る。いずみとは距離がある。今から走って追いかけてきたとしても、僕の方が速い。そう思って走り、玄関に辿り着いたとき感じたのは安堵ではなく、絶望だった。
 玄関の扉には沢蟹がびっしりと張り付いていた。扉の原形など分からないほどの無数の蟹だった。払いのけて鍵を開けようと蟹の中に手を差し込むと、蟹たちは明確な敵意をもって僕の腕を攻撃してくる。その激しさに悲鳴を上げて手を引き抜くと、傷は骨にまで達するものもあった。あの小さな沢蟹のどこにそんな力が、と絶句したが、そんな暇もなかった。いずみがすぐ後ろに迫っていた。
「行ったでしょ。逃げられないって」
 包丁の刃が凄惨に煌めいた。僕は丸腰だ。しかも自分から袋小路に逃げ込んでしまった。逃げ道はない。活路は、いずみに向かって行って見出すしかない。だが、一歩間違えば致命傷を負う。チャンスはそう何度もない。
 僕は雄叫びを上げながら、振り返っていずみに向かって突進する。いずみもまさか向かって来るとは思わなかったのか、ぎょっとして刃が迷いを見せた。多少の傷なら構うものか、と突っ込み、体当たりを食らわせる。右足に鋭い痛みを感じる。刺されたらしい。だが動けないほどではない。浅手だ。即座に体勢を立て直して立ち上がり、走り出す。
「痛いじゃない。なにするのよ」
 僕はその声に構わず、リビングに逃げ込んだ。玄関が駄目なら、窓からだ。二階から飛び降りたくらいじゃ死にはしない。いずみと対峙するよりましだと思った。だが、リビングに入った僕は絶叫した。逃げ道などないのだ、とそこで本気で悟った。
 窓も床も壁も天井も、蟹が覆い隠していた。隙間など見えないほどびっしりと、何万、ひょっとしたら何億という蟹が蠢いていた。そして血の臭いにひかれるのか、蟹は僕の足を上がっていこうとするし、天井からも足目がけて降ってくる。
「よせ、寄るな!」
 足を振り、蟹を振りほどきながら、中を進む。蟹を踏み潰し割った感触は気色悪いが、最早罪悪感などは覚えなかった。自分が踏んでいるのは生物ではなく、何か怪物の一部のようなものだと思った。
 テーブルまで辿り着き、痛みを堪えながら手を差し込んで蟹を薙ぎ払い、テーブルの上にあったハーバリウムのボトルを取る。ボトルは僕の血で赤く染まった。
「逃げられないわよ。いい加減諦めたら」
 僕はハーバリウムのボトルのキャップをとり、ポケットからライターを取り出す。
「なんのつもり?」
「ハーバリウムってのはオイルで作るんだってのを聞いたことがある」
 いずみの眉がぴくりと震える。「もしオイルじゃなかったら」
「そのときは、諦めるしかない。だが、オイルだと信じてるよ」
 床の蟹にボトルを叩きつけて割り、火を点けたライターを落とす。「やめて!」、いずみの叫び声がそれと同時に響くが、もう遅い。ぱっと火柱を上げて燃え盛り、蟹を焼き払いながら燃え広がっていく。
「やってくれるじゃない……!」
 いずみは甲高い叫び声を上げて、包丁の柄頭を腰にあてて突っ込んでくる。避けようと足を動かすが、何かに引っ張られて動かない。足元を見ると、蟹たちが集まって僕のズボンを掴み、引っ張っていた。
「しまっ」
 いずみへの反応が遅れ、僕は正面からいずみの刃をまともに受け止める。腹部に鋭い痛みが走った。腹だけでない、全身を引き裂くかのように痛みは走った。僕はそのままうつ伏せに倒れる。包丁は腹に刺さったままだ。
 いずみはその一撃で仕留めたと勘違いしたのか、僕を置いて水を汲みに走った。
 当たった場所がよかったのと、いずみ自身が非力だったこともあってか、傷は思ったよりも浅く、体を引きずりながらなら動けた。
 僕はいずみに気づかれないよう静かに、だが速やかに体を引きずって移動し、和室に入った。
「意識、ありますか」
 僕は男に問うた。男は黙って頷いた。
「この忌まわしい悪夢を、終わりにしませんか」
 男はゆっくりと目を開け、口をもごもごさせて蟹の残骸を吐き出し、咳き込むと、「お願いします」と言って再び開けたのと同じくらいゆっくりと目を閉じた。
 僕は腹に刺さった包丁を意を決して引き抜く。体の中を異物が抜けていく心地悪い感覚。痛みに吐き気を覚えながら、一気に引き抜いた。そして彼の首の上に包丁を構える。
「なに、してるの」
 戻ってきたいずみは水の入ったバケツを取り落とす。
「この人がいなきゃ、蟹は増やせない。そうだろ」
「だめよ、やめて、お願い。その人を殺さないで」
 いずみは明らかに狼狽していた。その様子は先ほどまでの鬼気迫るものではなく、か弱い女のそれだった。
「この悪夢も、これで終わりだ」
 僕は目を瞑って、包丁を突き下ろす。肉を裂き、骨に達する感触が手に伝わる。男は弱り切っていたのか、呻き声すら上げなかった。
 切り裂くようないずみの絶叫が響き渡る。猛然と走ってくると、その細身のどこにそんな力が、と思える力で僕を弾き飛ばし、男の亡骸にすがりついた。
「いや、いやよ。ねえ、噓でしょ。あたしを一人にしないって、言ったじゃない」
 蟹たちはいずみの慟哭に呼応するかのように蠢いて、いずみの周囲に波のようにうねって集結する。
 火の手が回り始めていた。洋室は完全に炎に包まれ、玄関からの脱出は叶わなそうだ、と判断すると、僕は和室の窓を開けてそこからベランダに転び出た。ベランダをよじ登り、転げ落ちると、下がちょうど植木になっていたらしく、クッションになって地面に直撃せずに済んだ。
「おい、あんた、大丈夫か!」
 ちょうどアパートの裏路地を通りがかっていた中年の男が僕を見つけ、助け起こしてくれた。意識が朦朧とする中で和室の窓を見たとき、涙で目を赤くしたいずみが僕をじっと見下ろしていた。いずみの唇が動いているのを見届け、彼女が部屋の中に姿を消したところで、僕の意識は途切れた。

 目覚めたとき、最初どこにいるのかぴんと来なかった。それまで何をしていたのか、瞬間的な健忘状態にあったのだと思う。だが、時間が経つにつれ、腹部の痛みが蘇るにつれ、あのアパートでの恐ろしい出来事をいやでも思い出すのだった。
 意識が完全に覚醒し、自力で体を動かせるようになった頃、主治医から警察が事情を聴きたいと来ていると告げられ、僕は了承した。
「県警の峰原です。怪我で辛いところ申し訳ないね。君の傷の状態と発見された場所から、何か事件と関りがあるんじゃないかと思ってね。いやなに、君を容疑者だと思ってるわけじゃない。むしろその逆じゃないかと思っているのだがね」
 峰原は中年を過ぎたベテランの刑事で、小柄で小太りのように見えるが、スーツの下の肉体はぜい肉ではなくて筋肉だろうと思った。そういう示威的なものをうまく覆い隠すようなある意味飄々としたところがありそうな人物に思えた。
 僕はあの部屋で起こったことを包み隠さず、刑事に話した。ただ一つ、男をこの手で殺したこと以外は。
「なるほど。病的な女が、自分の狂った信仰のために男を誘い出して殺していた、ということか」
 僕は頷いた。
 峰原は無精ひげの目立つ顎を擦りながら考え込むと、「辻褄の合わんことが一つある」と鋭い目を僕に向けた。
「焼け跡には遺体が一つしかなかった。鑑定待ちだが、君の話と照合すると、多分男だろう。布団の焼け残りと一緒に発見されているからな」
 ばかな、と僕は叫んで、腹部が刺すように痛んで押える。
「あの火の勢いで、逃げられるなんて」
「だが現実はそうなっている。本当に女などいたのかね」
 間違いなく、と僕は頷き、そしていずみに繋がるものとして壺を思い出し、「壺はありましたか」と急きこんで峰原に訊ねる。
 峰原は僕の剣幕に驚いたのか、やや動揺しながら、「いや、そんなものはなかったぞ」と首を振った。
 炎で割れてしまったのではないかと思い、それも訊ねてみるが、峰原は首を横に振った。
「なんにせよ、不明なことの多い事件だ。もしかしたらまた事情を聞かせてもらうかもしれん。名刺を置いて行くから、何か思い出したら連絡してくれ」
 そう言って峰原は名刺を置いて立ち去った。
 僕はもう、いずみから逃れられたのだろうか。あの炎の中で生きているなんてことがあるだろうか。だが、あの女は人外の者のような雰囲気を纏っていた。蟹の壺のこともある。ひょっとしたら、蟹の力を使って生き延びて、僕に復讐にやってくるかもしれない。
 ああ、あのとき彼を殺すのではなく、いずみを殺していれば。
 手負いの僕ではできなかったであろうことを、安全圏に逃げ出してしまうとなんでもできたような気になって後悔してしまう。
 僕は刑事とのやり取りで疲労感を覚え、瞼が重くなってくるのを感じる。心地よい気だるさが全身を支配している。瞼をゆっくり閉じて眠りに落ちる。

 なぜ、彼を殺したの。
 いずみが目の前に立っていた。体の半分が焼け焦げた炭のようになっていた。その体の中では、彼女の怒りがそうさせるのか、まだ炎が燻っていた。
「彼が死を望んだからだ」
 僕は手に何か握っている感触があって、視線を落とすと男を殺した包丁を握っていた。その手は男の血で真紅に染まっていた。
 嘘よ。あなたは、あたしが彼のもので、自分の手に入らないから殺したのよ。
 いずみは僕の首に手をかける。その手がみるみるうちに無数の蟹に変化していき、僕は悲鳴を上げる。その口を、いずみはキスをすることで塞ぐ。彼女の蠢く舌は蟹になり、彼女の喉からもれる吐息も蟹となり、僕の口の中に溢れる。
 いいわよ、ほら。好きにしても。
 焼け焦げたいずみの体が新しい肉と皮を纏い、一糸纏わぬ、白亜の彫像のような美しい裸身が現れる。
 僕は咳き込みながら蟹を吐き出し、指を使って蟹たちを掻き出した。
 でもね、これだけは覚えておいてね。あなたがいくらあたしを犯そうと、あの人を想う心までは奪えないんだって。
「僕は君を傷つけたいわけじゃない」
 それも嘘。だってあなた、あたしに噛みつきそうな獣の目をしていたもの。
「それは、君がそう誘ったのじゃないか……」
 誘うわよ。あの子たち、お腹を空かせてるの、いつも。母親なら、子どもにはご飯をあげなくちゃ。違う?
「なぜ人間の、男の肉が必要なんだ」
 いずみはくすくすと笑って、僕の頭に腕を絡めた。
 だって、人間の男の味を覚えちゃったのだもの。仕方ないじゃない。
「最初の犠牲者だな」
 いずみは自分の胸に僕の頭を押しつけ、嬌声を上げた。
 馬鹿な男。あたしにはあの人がいるのに、あたしに横恋慕なんかしてさ。あの人のことを殺してあたしも殺す、なんてどうしようもないことを言うから、蟹の壺を押しつけて、蟹たちに肉を食わせたの。そうしたらそれがあんまり美味しかったものだから、あの子たち、男の肉しか食べなくなっちゃったの。
「何人殺した」
 あははは、といずみは笑って僕の腕の中からするりと抜け出し、後ろに回り込んで耳元で囁く。
 知らないわ。じゃああなた、これまでにどれだけの蟹を殺したの。
「蟹と人間は違う」
 違わないわ。あたしにとっては、蟹たちは愛しい我が子なの。そしてあの人はたった一人の夫だった。代わりはいない。あの人の愛の雫を受け取れないあたしは、もう蟹を産めない。
 心底悲し気な声でいずみは言った。
「なら、君も蟹も滅びていくだけだ」
 いずみは憎悪に満ちた眼差しで僕を見つめて、そうかもね、と呟いた。
 いずれにせよ、これは夢よ。何の意味ももたないわ。
「そうだな。こんなもの、何の意味もない」
 じゃ、さよなら。
「ああ、さようなら」

 再び目覚めると、夕刻に差し掛かっているのか、部屋の中が薄暗かった。
 少し寝すぎたな、と思って電気をつけるため起き上がろうとすると、体に力が入らなかった。
 狼狽と焦燥が心を占める。この感覚は普通じゃなかった。体にいくら頭が命じても動けない。こんな感触は初めてだった。だが、目だけは動かすことができたので、視線を巡らせていると、幸いなことに点滴を交換しにきている看護師がいた。
 声も出なかった。目以外何も動かない。意思表示ができない。
 看護師は点滴を取り換えるとこちらを見ようともせずに立ち去ろうとした。だが、途中まで行きかけて「ああ、そうそう」と思い出したのか踵を返してこちらへ歩み寄ってくる。その声にどこかで聞き覚えがあったのだが、僕の世話で出入りしていた看護師なら、無意識で声を聞いていたのかもしれなかった。
 看護師は枕元で立ち止まると、抱えていた点滴の袋を枕元の机の上に置いた。その点滴は満タンに近かった。なぜ、交換したのか。訝しく思って看護師の顔を視線を巡らせて眺めた。だが、夕刻の光の影になっていて、顔が判然としない。
 看護師は髪をかき上げながら、僕の耳元にすっと唇を寄せて囁く。
「なぜ、彼を殺したの?」
 その言葉に背中に氷柱を差し込まれたような恐ろしさを感じてぞっとすると、必死に看護師を見た。
 そこにいたのはいずみだった。
 声を上げられないと知りながらも口を開け、絶叫しようとすると、いずみは小さな茶色の壺を取り出して、その中に手を突っ込んで蟹を引きずり出し、僕の口の中に押し込んだ。
 僕はもがくことすらできず、蟹を押し込まれて、蟹をかみ砕くこともできないので、口の中をいいように蹂躙された。窒息する、そのすんでのところでいずみの手が離れ、息を吸い、だが蟹に対しては出て行ってくれるよう祈るしかできなかった。
「あの人が味わった痛みを、あなたも味わうのよ」
 いずみは腰から包丁を抜くと、両手で構える。
 僕は目で懸命にやめるよう訴えたが、いずみはにこにこと笑うばかりで僕の訴えなどまるで聞いちゃいなかった。
「じゃ、さようなら」
 そう言っていずみは包丁を突き下ろし、喉に詰まっていた蟹もろとも僕の喉を刺し貫いた。
 僕は血を浴びた、慈愛に満ちた女神のような笑みのいずみを止まった時間の中で眺めている気分になった。そしてやがて、陽が落ちて夜の帳が下ろされるように、僕の意識も深い暗闇の中へと沈んでいったのだった。

〈了〉


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