うつつゆめの書庫~面接記録~
これは私が初めて書庫を訪れたときの記録だ。
幽玄とした道のりを越えてたどり着いた書庫は、はじめそこに扉が浮いているとしか思えなかった。あまりに濃い霧のため外壁を始めとする全貌が覆い隠され、色濃い扉だけがぼんやりと浮かび上がっているようだった。
おずおずと扉を開けて中に入った私を待ち受けていたのは、古本屋などで嗅ぐことのできる本の匂いだった。それがむわっと私を包むように襲い掛かり、その匂いに気をとられているとそこに満ちている「声」の気配に気づくのに遅れることになる。
その空間に満ちている本の気配――それを私は「声」と呼ぶのだけれど――それが囁くような小さなものが寄り集まり、押し寄せる波濤のざわめきへと変わっていた。まるで寄せては返し、ゆらゆらと揺り動かすその「声」は、私の耳を喜ばせた。
「やあ、いらっしゃい。遠いところご苦労様。僕は当書庫の管理人、一柳綾人(いちりゅうあやと)。よろしく」
管理人の一柳がカウンターから出てわざわざ出迎えてくれ、差し出された手を握り返すと、私はようやく「よろしくお願いします」とだけ応えた。
一柳は背が高くひょろりとした男で、端正な顔立ちをしていて、表情も柔和だが、どこか超然としていて、虫かごの中の虫を観察するような冷ややかな目つきが特徴的だった。
「じゃあ、早速面接を始めようか」
頷いて、一柳の後をついて行くと、閲覧用のデスクと椅子があり、その中の一つを示されて私はそれに座り、一柳はデスクを挟んで向かい側に座った。
「ああ、そんなに緊張しなくて構わないよ。これは形式的なものだからね」
形式的? と首を傾げると、一柳は手に持っていた分厚いファイルを持ち上げて、タイトルを見せる。そこには「水瀬文祐についての調査報告書」と書かれていた。
「この報告書で君の生い立ちや性格については把握している。次の管理人に適していると、僕は判断させてもらった」
「なら、面接をする意味は?」
そうだな、と一柳はくすくすと笑った。
「僕の個人的な興味かな。報告書はどうしても紙である以上過去の情報になる。僕は今現在のリアルな君について知りたい」
さながら膨大な過去の集積場にいながら、紙は過去にすぎないと口にしてしまえる一柳に、私は好感をもった。喜んでお答えします、と答えると、では、と一柳が居住まいを正し、私もそれに倣う。
「改めて君の名前を教えてくれ」
「水瀬文祐です」
「うん。じゃあ、趣味は何かな」
一柳はファイルを閉じたままデスクの上に置き、黒い革の手帳を広げてそこにメモを取りながら話を聞いていた。
「一番は読書、と、小説の創作……まだ趣味の域ですが。後は天然石を磨いてアクセサリーを作ったりとか、オペラを鑑賞したりとか」
うんうん、と一柳は頷きながら聞き、なるほどね、とペンを走らせる。
「読書が好きなことが、管理人の条件みたいなものだからね。ちなみに好きな作家は?」
私は少し考えて、「恒川光太郎、連城三紀彦。古典と言われるものではホフマンスタール」と答えると、一柳は「ホフマンスタールはオペラが先? それとも彼の文学が先?」と訊く。
「ホフマンスタールが先です。そこからオペラに入っていきました」
「なるほどね。それじゃあ、彼の若い頃の詩よりも、後年の小説とかの方が好きなわけだ」
私はそうですね、と頷く。
ホフマンスタールは幼いころから詩作に親しみ、神童の名をほしいままにしていたが、やがてオペラと出会い、その制作に関わるようになると、文壇は彼を死んだものとして社会的に抹殺してしまった。当時は詩よりもオペラなどは一段劣る大衆のものと見なされていたがための、酷な仕打ちだった。私は彼の書いた「ルツィドール」という短編を読んで、背筋が震えるような読書経験をした。それはジェイムズ・ジョイスの「死せる人々」を読んで以来の感動だった。
私がホフマンスタールの美しい物語を胸に呼び起こして陶然としていると、一柳が咳払いをして、我に返った。きっと一柳から見たら、トマトのように赤くなっていたに違いない。
「読書や創作のジャンルに偏りはあるかい?」
「いえ。恋愛ものはあまり好んで書きませんが、書けないというわけではないですし、その他のジャンルも、巧拙を別にすれば書けますし、読みもします」
いいことだ、と一柳は眼鏡のずれを直して、「君は真っ先に恋愛ものを口にした」と申し訳なさそうな目で、それとは裏腹に言葉は切り込んでくる。
「それは裏返せば、君が最も関心があるのは恋愛だと思うのだが、どうだろう」
私は俯いて考え込む。恋愛経験豊富でもなければ、恋愛小説というものをそれほどしっかりと読んだことがあるわけではない。学生時代は村山由佳などを読んだが、すぐに飽きてしまい、二、三作触れた程度だ。だが、連城三紀彦の恋愛ものは抵抗なく読める。その差はなんだろうかと考えても、すぐにこの質疑の場で答えは出せそうにない。
「関心、というよりは苦手意識なのかもしれません。恋愛を主軸にしなくても、様々な物語でエッセンスとして恋愛は加わり得るわけで。それがうまく書けない自分へのコンプレックスなのかもしれません」
「なるほどね」
頷いて、一柳は立ち上がると、「コーヒーでも淹れよう。本来なら飲食禁止だが」と目配せする。私は恐縮して「お気遣いなく」と止めたが、自分が飲みたいんだと、コーヒーを淹れに席を立ってしまった。
待っている間手持ち無沙汰になってしまった私は、鳥のように囀り、または飛び交う「声」に耳を澄ませた。
「声」はどうやら私を品定めしているようだった。ふわふわと笑いながら、「今度の管理人はどうかな」とか、「一柳より年食っているな」など楽し気に囁き交し合いながら私の周囲を飛び回っている。
この「声」が聞こえることが管理人の唯一の資格要件だった。
私は人生に迷い、悔い、苦しんだとき、街を彷徨う中で、この書庫を見つけた。どこをどうあるいたのか覚えていなかった。けれど、書庫は私が求めるときにはそこへ至る道を敷き、その扉を開いてくれた。
管理人はいないことが多かった。いても忙しそうにしているので、声をかけたこともかけられたこともない。他の利用者は、たまにだが出くわすことがあって、でもお互い暗黙の了解で声をかけたり干渉したりすることはしなかった。
だから、一柳とは今日がほとんど初対面と言ってよかった。
一柳は戻ってくると、コーヒーを私の前と自分の席に置き、コーヒーの香りと味をゆっくりと味わい愉しんでから、口を開く。
「僕は君の今の仕事に興味はないんだ。クリエイティブな仕事じゃないしね。でも、その前の経歴に興味がある。書店員だったんだって?」
「はい。五年ほどですが。地方のチェーン店で書店員をしていました。これでも仕事は一人前だったと自負しています」
「そうか。なら、その書店員を辞めたのはなぜだい」
それは、と私は言い淀んでしまうが、一柳に隠しても仕方がないという気がした。彼は管理人を降り、私がその座に上がる。今回限りの邂逅なわけだ。どんなことを話しても差支えはないだろう。
「上司と売り場づくりや経営のことで言い争いになり、その後執拗にパワハラを受けるようになったためです」
わざと売り場の商品を入れ替えて、売れ筋を並べていない、と私が休みの日に上層部に虚偽の報告をしたりだとか、私の駄目なところを何度も何度も執拗にメールで送ってきたりだとか、私を目の敵にしているところがあった。無論、私にも悪いところはある。当時は血の気も多かったし、上司であれ売られた喧嘩は買うぞ、という一面があったので、やられたらそのまま黙っている性分でもなかった。
そうか、それは災難だったね、と一柳は眉を顰める。
「創作のことだけど、プロとしてやっていくつもりはないのかい」
「あります。けど、それだけの力量がなかなか伴わないのは事実で」
「公募とかにはチャレンジしてみた?」
私は苦笑して、何度か、と答える。
「たとえばどこに」
「文藝やすばる、後はホラー・ミステリの賞に出したこともありますが、大抵門前払いに近い結果です」
「そうか。でも、続けていくかい」
そうですね、と確信をもって私は頷く。
書くことは息をすることだった。生きている、というのは水の中にずっといるようなものだと思っている。どんな潜水の達人でも、永遠には潜り続けられない。どこかで息継ぎをする必要がある。その息継ぎこそが、私にとっては書くということで、それをもし奪われてしまったら、私はどこでどうやって息継ぎをしたらいいのか分からなくなってしまう。
「いいことだ。ちなみに、この書庫では定期的に新しい記事を君に公開してもらう必要があるんだが、どんな記事を書くつもりだい」
「小説、読書記録、エッセイを柱にしたいと思います」
私の小説が、どこまで通用するか分からないけれど。それを確かめるために、この書庫の管理人の職を引き受けることを決めたとも言える。
分かった、と頷くと一柳はメモを閉じて立ち上がる。「合格だ。君がこれからは管理人になる」
一柳は胸のバッヂを外すと私に差し出し、それを受け取ると重荷を下ろしたような、気の抜けた笑みを浮かべる。
「管理人の引継ぎは明日行うから、明日また来てくれ。それまでに僕は残務整理をしておこう」
「分かりました」
立ち上がって、書庫を後にしようとすると、「水瀬君」と一柳が呼び止めるので振り返る。
「真摯に生きる人が救われるような、そんな場所であってほしいと思う。この書庫は」
私は書庫を見回して、そこに漂い満ちる「声」に耳を傾け、「一柳さんの仕事を引き継ぎたいと思います」と笑いかけると、一柳も安堵したような、照れくさそうな笑みを浮かべて、「感謝するよ」と呟いた。
〈了〉
■サイトマップは下リンクより
■マガジンは下リンクより
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?