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「うつ病」と「豊かな社会」について

ーーー精神科医の中井久夫先生のお話を、なるべくかみ砕いて書いてみました。様々な心のトラブルに悩む私たち現代人にとって、少しでも処方箋となればこの上ない幸いでございます。ーーー


人力で入念な除草を約2000年間も続けた結果、日本では雑草のほうがそれに適応して進化し、その結果、耕地除草は世界一手強いものに作り替えられてしまっているようだ。勤勉な日本の農民の長い除草の努力は、皮肉にも世界で一番強い雑草に仕立て上げたようだ。(中井久夫「分裂病と人類」より引用)

目標の達成のために、ひたむきに、粘り強く努力し続ける姿はたくさんの人の胸を打ちます。大空を翔ける飛行機が多くのエネルギーを消費して助走するがごとく、彼はしゃかりきに努力し、努力し、涙を流し、疲れ果てても七転び八起き、頑張り続けます。やがてすべてが報われるときが来て、誰もが幸せになるハッピーエンドを迎える・・・。そのようなエピソードに我々は涙します。

目標達成のためでなくても、私たちは頑張ることができます。その時の原動力は、一種の「強迫観念」に似たものです。仕事で納期が遅れそうなとき、提出物の期限を守ろうと躍起になっているとき、私たちを襲っているのは間違いなく「これをやらなければ、あとで取り返しのつかないことになる」という強迫観念と不安に似た感情です。

しかし、多くの日本人にみられるこれらの特徴が、どのようにして形作られていったのか不思議に思ったことはないでしょうか。

考えてみましょう。

原始時代、私たちは森に棲んでいました。森の中で生きる場合を考えてみると、どうもこのような「執着気質」的な性格は生存に不利になるように思えてならないのです。森の中ではすべてのチャンスが一瞬です。目の前を通り過ぎる獲物や、ほんのちょっとした天敵の匂いや気配も敏感に感じ取り、己の行動を素早く決めていかなければなりません。そのためには、「毎日ここにきて、こんなことをしなければならない」とか、「明日までにこの作業を終わらせないとまずいことになる」とか、いわゆる頑固で融通の利かない行動は慎まなければならないでしょう。森の中でとにかく有効なのは''勘''です。「今日は何となく不気味な感じがするから、こっちには行かないでおこう、昨日はよく獲物がとれたけど。」みたいな気まぐれ的な、臨機応変的な性格が最も生存に有利であることは疑いようがありません。

「こうでなければならない」というような執着気質的な性格は、原始の森に住む人たちにはほとんど無用の長物なのです。「その瞬間に何ができるか」を''なんとなく、しかし確実に判断する''能力と、「毎日毎日こうでなければならない」というのを何が何でも守り抜く能力は決して相容れません。

さて、このことを踏まえ、次のように考えることが出来ます。

「こうでなければならない」とか、「取り返しがつかない」とか、現代社会で多くの人をうつ病へと追い込むこのような執着気質的な性格の傾向は、すべて社会が豊かであることが裏目に出た結果ではないでしょうか。人間社会では今日その場所にあるものは必ず明日もあると言い切れるくらいすべてが整っているのですから。電車は必ず時間通りに来るし、渋谷駅前のハチ公もよほどのことがない限り明日も鎮座し続けるでしょう。

このような社会の中でこそ、先ほど述べた「臨機応変的な対応のうまい、気まぐれ的な性格」よりも「きっちりと約束を守り、特に何も考えずにルールに従うクソ真面目な性格」のほうが重宝されます。なぜなら、そちらのほうが便利だからです。日本社会はきわめて安全であり、明日の命は保証されています。原始の森のように、クマが近づいてくるちょっとした物音に気がつかなければ次の瞬間命を失う、なんてことは決して起こりえません。このような社会の中で生き残るためには、自然とうまくやるよりも人間とうまくやる能力の方が重要なものになってきます。この''人間とうまくやる''、というのに最も必要とされることは、「信用を勝ち取る」ということです。そして、どんな人間が信用を勝ち取ることが出来るかと言えば、これはもう疑いようなく「きっちりと約束を守り、特に何も考えずにルールに従うクソまじめな性格」であることは間違いありません。

努力が大切だ、頑張ることは素晴らしいことだ・・・なんて思想ははっきり言って贅沢品なのです。それは己の命が明日も保証されている(かのように思えるほど豊かな)社会の中であればこそ、輝くことのできる思想なのです。要するに、ほんの最近出てきたものに過ぎないのです。どうしようもない奔放さや残虐性、気まぐれこそが生命の本質なのであり、「自己責任」みたいなものに取りつかれて後悔に苛まれることなんぞ、大自然の視点からすれば修行が足りてない、ということになります。「気にする」なんてのは暇な連中のすることだ、「気にしている」場合じゃない。本当は「生きている」状態を維持するだけで大変な労力が必要なのだ。安全な都市の中では決して気づけないことですが、本来生きることは「後悔する」暇なんてないくらい放埓で忙しくて、内容の濃いものであったのかもしれません。

参考文献:中井久夫著「分裂病と人類」






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