「美しさ」を見出せるように。
女であるからには、そして職業に就くからには、彼女も女の美しさを売り物にする職業を選びたくないことはなかった。しかし、誰も彼女を美しいとは言ってくれなかった。彼女は化粧が禁じられている職業に就いた。
ところがある日、彼女を呼びつけた監督は、
「君は眉を描いてるね。」
「いいえ。」と、彼女はおどおど指に唾をつけて眉をこすって見せた。
「剃って形をつくっているだろう。」
「いいえ、生地のままです。」と、半ば泣き出してしまった。
「ふうん、とにかく君ほどの美しい眉なら、こんなところにいなくたって食っていけるだろう。」
監督は馘首の口実を彼女の眉に見つけたのだった。彼女は自分の眉の美しさを初めてはっきり知った。それは職を失った悲しさを忘れさせるほどの喜びであった。自分にも美しいところがある。彼女は結婚する自信を得た。
夫は眉が美しいとは言わなかった。彼女の乳房が美しいと言った。背が、そして膝が、美しいと言った。それから、それから。彼女は自分の体にあまりいろいろと美しさがあると教えられて、幸福に酔い痺れた。
しかし夫が彼女の体の美しさを探しつくした時、どうなるのかと思うと、自分に何一つ美しさがないとあきらめていたころの安らかさが、なつかしく思い出されるようになって来た。
(川端康成「掌の小説」新潮文庫より引用)
美しさは呪いではないのか。
自分のことを少しでも「美しい」と思えない人はいったいどうなってしまうのだろう。まず鏡を見れなくなるだろう。そして勇気を振り絞れなくなるだろう。自分の状況を変えるために、自分の幸福をつかむために必要とされる勇気は、「自分はこれほどのものを持っているのだから、できるはずだ!」という意識をどこかに持っていないと湧いて出て来るものではないのではない。
自信がない、まるで自分に自信がない、というのは想像以上に恐ろしい。それはもっと上を目指していろいろと足掻いてみる気概をその人から奪ってしまう。「私は出来ないんだから、ここにいるしかないや。」というふうに、自分自身を軛の中に閉じ込めてしまう。結果、その場から逃げられなくなる。どんなに不幸でも、そこにしか居場所がないかのように感じてしまう。これはマズい。ほんとにマズい。
小説中の「彼女」は、職を失った時に申し訳程度に褒められた「眉」のおかげで自信を取り戻した。皮肉な話だが、自分の居場所を追い出されて初めて、「彼女」は新しい場所へと踏み込む勇気を手に入れたのである。
生まれてからたった一人で自分で自分に自信をつけ、いろんなことが出来るようになり、孤独に成長していくのはほんとに難しい。というか、ほぼ無理である。人間は初めは誰かに育ててもらわなければ成長できるものではない。そして、誰かに「お前は生きているだけで最高だよ」と言ってくれる人がいればなおさら素晴らしい。自分は出来るんだ、という意識をどこかで持つためには、自分のことをしっかりと受け止めてくれる人が必要ではないのか。そんなことを思った夏の朝だった。
今日もお読みいただきありがとうございます。より多くの幸せが皆様に訪れますように。