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我がお節介のコペルニクス的転回①(KAIGO LEADERS FORUM 2020 WITH コロナ時代の介護を考えよう。イベントレポート:「介護現場の変化に迫る!あおいけあ・はっぴーの家ろっけんの“今”」)

わたしはお節介が嫌いだ.

「おひとり」の時間が好きだから,それを他人に邪魔されたくないし,そもそも「お節介」だとわかっていながら他人のプライベートな領分を踏みにじってくる,無神経な感じがいやなのだ.

この意味で,じつは「ケアニン」という表現もあまり好きじゃない.

「ケア "する" ことはイイことだ」と無条件に捉えていそうというか,ケア "される" 側のことは逆にあまり考えてなそうというか,もしかしたらケアすることそれ自体のなかに暴力や抑圧の性質が含まれている,なんて頭の片隅にもなさそうというか,無頓着な感じがいやなのだ.

結局どちらの「無神経」も「無頓着」もそんな「感じ」がするだけで,まったく根拠はないのだけど,つまりわたしはパターナリズムがいやなのだ.

「パターナリズム」とは,強い立場にある者が,弱い立場にある者の利益と称して,本人の意志は問わずに介入・干渉・支援し,そのひとの自由や自律を制限すること,を言う.

「お節介」も「お世話」も日本語では「焼く」もので.そして「焼く」ものである以上,それらを「焼」いてしまうと,どこか悪い意味に,「世話の焼ける」手のかかる存在に,「世話の病める」頭を悩ませる存在に,つまりは社会的弱者に相手がなってしまうのではないかと,そんな疑問がぬぐえなかったのだ.

ところが今回「KAIGO LEADERS FORUM 2020——WITH コロナ時代の介護を考えよう。」第1週目に参加して,しかもまさに「@おせっかい不動産」の首藤さんと「ケアニン」モデル事業所の加藤さんの対談を聞いて,わたしのなかの「お節介」解釈にパラダイムシフトが起きた.

お節介はパターナリズムの一種なのではなく,お節介こそがパターナリズムを超えるのだ,と.

きっかけは首藤さんの次のような一言だった.

(続く)

                                   

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