恍惚

「君はジャングルリュックをしょってるか」
 期末考査へ向けてピリつく朝の教室に入るなり、井藤は大声をあげた。髪や衣服、そして呼吸の乱れはない。ただ、大声をあげただけなのだ。井藤はそのまま自席につき、放課後までいつも通り静かだった。
 みんな気になっていた。だけど言い出せずにいた。なんだか怖かったのだ。井藤の声を聞いたのは久しぶりだったし、今日はあの日だからだ。
「なぁ、ジャングルリュックってなんだよ」
 学級委員の自称元ヤンキーである添田は言った。
「お笑いトリオなら知ってるけど、名前がちょっと違うよな。リュックじゃなくてポケットだ」
 井藤は初めて笑った時を再現しているかのように迷いながら口角と目を半月形にした。
「しょってないならどうでもいいんだよ。しょってない奴らは今日までなのさ。みんな、しょってないだろう。そういうことさ」
 添田は首をゆっくり横にふり鼻で笑った。
「井藤、あんなウワサを信じてるのか。あの手の情報は遮断してるからどうなってんのかと思ってたが、なんだ、ジャングルリュック? 知らねぇな。誰か知ってるか」
 教室は静かだ。
 秒針が動いた。
「知ってるか知らないかじゃないんだよ。しょってるかしょってないかなんだよ」
 井藤は泣き出した。
 泣き声はやがて奇声に変わった。「落ち着けよ」となぐさめても無駄だった。みんなの耳が痛くなり始めた。だけど帰らなかった。
 すると先生がやって来た。「どうしたんだよ」と驚いていた。いつもは怒ることしかない先生が、心配そうに驚いていた。
 ドアに近い星谷が先生に流れを伝えた。
「なんだジャングルリュックか。先生はしょってるよ。あ、見えないのか、もったいないな。ほら、しょってるだろう。しょってるんだよ」
 意外だった。井藤もそうだったのだろう。目を丸くした。
「さあ、みんな帰れよ。今日は居残り禁止なんだからな。部活も禁止だ」
 先生は手を叩いた。いつも通りだ。僕たちは何かしつけられている。
 
 空はなんだか茜色と鉛色が混じっていて、湿った土の匂いと、草木の葉を揺らす風の音。
 でも、まぁ、いいんだ。
 いつも通り、そう、いつも通りなんだから。





 

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