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〔ナンセンス劇場〕陥落してやる

●某月某日
 映画を観た帰り、一人の男とすれ違った。あたしもその男も、お互いを一瞥しただけで通りすぎたけど、すれ違いざま、あたしはわずかに心地よいめまいを覚えた。男からわずかに漂い出ていたフェロモンに、女の本能が反応したのだ。

 こんなことは初めてだ。いままでの三十年間、男を刺激することはあっても、男に刺激されることなど一度もなかった。
 あの男はたしかにいい男だった。日本人ばなれした彫りの深いマスクといい、深く澄んだ目といい、あるのは好感だけで、いやらしさなどは全然なかった。スポーツマンタイプの引き締まった長身は健康美にあふれていた。

 はっきり言ってあたしはいい女よ。歴代のミス・ユニバースだって、あたしのプロポーションを目にしたら無言で逃げだすわ。あたしの体に勝る彫像を彫れるアーティストなんか世界中をさがしたっていやしない。
 世の中には、美人だなんておだてられて鼻を高くしている恥知らずな女がいるけど、そういう世間知らずの女どもは、一度あたしの顔を拝むといいのよ。のぼせあがっていた自分が恥ずかしくなるから。安っぽい美の観念が崩れ去るのを自覚するといいわ。

 あたしが街を歩けば、好色で低能な男どもの視線があたしの全身をなめまわす。あたしは男の視線なんてすべて把握している。どこを見ているかお見通しだわ。視線が移動する順番が違うだけで、行き着く先は同じ。
 比類なく美しい顔、ボタンがはじけそうなほどブラウスをもちあげる胸、すっきりとくびれたウエスト、美しい曲線と圧倒的なボリュームでタイトスカートを張りつめさせるヒップ。そして、そこから伸びる長い脚。
 タイトスカートのスリットに目を奪われた男は、心のなかでよだれをたらしていることだろう。

 それなのに、今日の男はあたしを見ても無反応だった。そんなことはゆるされないのよ。すべての男はあたしに心を奪われて、男の本能をたぎらせながらあたしにアプローチしなければならないのよ。
 それが、まるで鼻もひっかけないって顔で、生意気だわ。あたしに対して失礼よ。しかも、たとえわずかであろうとあたしのハートを揺さぶったなんて、信じられないわ。そんなこと、いままで一度もなかったのに。嘘よ。嘘だわ。
 このまま済ませるわけにはいかないわ。なんとかさがしだして、足もとにひれ伏させなければならない。そうよ、絶対ゆるせないわ。


●某月某日
 今日、おそろしくいい女を見た。映画を観た帰りにすれ違っただけだが、あまりの美しさに、その女をちらりと見るだけで精いっぱいだった。
 今日観た映画の主演女優は世界的美人といわれているが、今日すれ違った女を見た瞬間、あの主演女優は粗雑なつくりの安っぽい人形と化した。

 おれはいままでに数えきれないほど多くの女をものにしてきたが、そのすべてが女の側からのアプローチだった。
 おれには天性の美がそなわっている。顔も体も、造形の神の最高傑作といえるほどの完璧さだ。声もまた、よく通る透明感のある低音だ。二枚目専門に吹き替えをする声優であろうと、おれの声を聴けば三日は喋りたくなくなるだろう。知りあいが飼っていたカナリアは、おれの声を聴いてから歌を忘れた。おれの声でささやかれた女はたいてい骨抜きになる。
 どんなにすました女でも、どんなに節操のある女でも、おれに関心をもたないなどということはあり得ない。人妻であろうと中高年であろうと、みんな同じことだ。

 そのおれが、あの女に対してはなんのアクションも起こせなかった。くやしいが、あの女の美貌と迫力に気圧されたとしか思えない。これじゃあ、けつの青いガキと同じじゃないか。なんてことだ。かつてない失態だ。
 幸い、あの女にはまったく興味がないという態度を装うことはできたが、このままではおれの負けになる。いままでの人生に瑕疵を残すことになってしまう。このまま済ますわけにはいかない。なんとしてもあの女をものにしてやる。それも、いつものように向こうから惚れさせて。
 その目的を果たすためには、まず、あの女にもう一度接触しなければならない。さて、どうするか。


●某月某日
 その男をさがすといっても、手がかりがまったくない。あたしはもっともオーソドックスな方法で臨むことにした。張り込みだ。映画館のそばにあるスターダストという喫茶店がいいだろう。

 スターダストは四十代の夫婦が経営している。当然ながら、狙うのはマスターのほうだ。人をさがしているからと言ってマスターに頼むと、窓際のいちばんいい席を提供してくれた。
 飲みたいものを飲みたいだけ、しかも、ただで飲んでいいとまで言ってくれた。そのうえ毎日でもいいと。あたしの思惑通りだった。あたしはその条件を引きだすために、超ミニのタイトスカートを履いてきたのだ。

 マスターが提供してくれた席は、カウンターからよく見える場所にある。つまり、カウンター内にいるマスターからよく見えることになる。
 あたしにいい席を提供してくれたマスターの好意に謝意を表そう。少しの感謝と嗜虐の気持ちを込めて、ときどき脚を組み替えてあげることにした。さりげなく、そして大胆に。
 マスターはそわそわと落ちつかず、何度かコーヒーをこぼしていた。そのたびに奥さんに叱られて、かわいそ。

 外の通りから窓越しにあたしを見た通行人が店にはいってくる。もちろん男ばかりだ。カップルの場合は、男のほうがパートナーの女に小突かれて通り過ぎる。


●某月某日
 おれはあの女にもう一度接触するため、張り込みをすることにした。映画館の近くにあるスターダストという喫茶店がいい。
 スターダストのオーナーは四十代と思われる、人のよさそうな男で、同年代と思われる奥さんと二人で店を営んでいる。おれはその奥さんと仲良くなることにした。奥さんは客からママと呼ばれているようだ。

 おれは、マスターがカウンターを離れた隙を狙い、人さがしをしたいのだが、とママに話をもちかけた。ママは顔を紅潮させて二つ返事で快諾し、通りに面した見通しのいい席を提供してくれた。
 さがしている人が見つかるまで、なん日でもかまわないから予約席にしておきますと、満面の笑みを浮かべて言ってくれた。


●某月某日
 昨日マスターに頼み込んだあと、さっそくそのテーブル席へ行って椅子にかけてみた。この席からなら通行人を確実に見張れる。あたしはマスターに感謝した。今日も脚を組み替えてあげよう。

 そんなことを思いながら入り口のほうへ目をやって驚いた。あたしはやはり強運だわ。張り込みを始めてまだ二日目なのに、さっそくあの男がスターダストにやってきたのだ。
 あたしは少し胸がキュンとした。いったいあたしはどうしたのよ。こんなことがあってはならない。あたしは自分をいさめた。


●某月某日
 翌日スターダストに行くと、ママの化粧が昨日より濃くなっていた。口紅は昨日と違い、赤い色になっていた。今日は一段ときれいですねと、低い声でささやいたら、化粧の上からでもわかるほど顔を赤らめていた。

 確保しておいてもらったテーブルへ向かったおれは驚いた。おれの席の隣のテーブルに、あの女がいるではないか。わずか二日目なのに、なんてラッキーなんだ。
 なんの本かわからないが、女はハードカバーの小さな本を読んでいる。その本の向こうには、ふくよかな胸がつくりだした、深くて軟らかそうな谷間が見えている。不覚にも、おれは胸が高鳴るのを感じた。

 おれは静かに自分のテーブルへ行き、女と斜向かいになる椅子に腰をおろした。バッグから取りだしたノートパソコンをテーブルに置き、平静をよそおってパソコンのスイッチをオンにした。


●某月某日
 隣のテーブルにあの男が来て、あたしと斜向かいになる椅子にかけた。あたしはときどき詩集から目を離し、男に気づかれないように注意しながら観察した。
 男はノートパソコンを操作している。仕事だろうか。気になって、だんだん詩集に集中できなくなってきた。


●某月某日
 今日で三日目だ。まだなんの進展もない。女は相変わらず本を読んでいるが、見たところ同じ本のようだ。スターダストにいるあいだ、ずっと読んでいる。それなのに読み終えるようすがない。
 たぶん、本はカムフラージュだ。本を読むふりをしながら、おれがアプローチするのを待っているのだ。だが、そうはいかないぞ。女が先にアプローチしてこなければならないんだ。おれからは絶対に声をかけない。



      ☆   ☆   ☆



●某月某日
 あれから四十年。もはやお笑いタレントの綾小路某のギャグだわ。四十年も経ったのに、いまだになんの変化もない。会話もしたことがないから、あの男がどこの誰なのかだっていまだに知らないままだわ。
 あたしはとっくに閉経したし、更年期障害さえ過ぎ去ったわ。もしもあの男がアプローチしてきても、もう、体が受け入れることができるかどうかわからないわ。肌もどこも、ちょっと乾燥気味だから無理かもしれない。一応ためしてみる気はあるけど。

 あっちこっちに不具合が生じてきた。座ってばかりだから痔になったり腰痛がでたりでさんざんだわ。白髪は染めているからわからないけど、しわやしみなんかもう隠しきれないわ。
 運動不足と偏食で血圧はあがるわ胸は下がるわ。体重だってめちゃくちゃ増えて三段腹だし。
 それにしてもしぶとい男だわ。だけど、あたしだって負けないわ。あたしからは絶対に声をかけないから。


●某月某日
 それにしてもあの女、いい根性の持ち主だ。お笑いの綾小路某じゃないけど、もう、あれから四十年だ。
 スターダストはもう二代目が継いでいるし、かつての映画館は五年前につぶれてしまった。
 こんなところで意地を張っていないで、喫茶店が閉店してから女の後をつけて、住所くらいは確かめておけばよかったかもしれない。ああ、いまさらこんなことを言ってもしかたがないけど。

 最近は前立腺が肥大気味でトイレが近くなった。老眼も進んだし、頭は頭で、てっぺんまで額になっちまった。腹も出てきて、履けなくなったズボンが山ほどある。
 そして、なにより心配なのは、肝心のあっちのほうだ。加齢とストレスでホルモンバランスがくずれ、テストステロンの分泌がめっきり減った。若いころのような、天を突くたくましさがなくなってしまった。
 こんな状態では、もしあの女がアプローチしてきたとしても、満足に応じることができないだろう。
 さて、またトイレに行ってくるか。
 ああ、そろそろ心臓の薬を飲む時間だ。





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