それ、気の遣い方が違うでしょ
梅雨が明けて暑さが本格化しはじめたころ、地元の夏祭りが行なわれた。私は氏子総代の一人なので式典の運営に携わっていた。
主な神事がすんだ後、四人の氏子総代が手分けして、出席者に酒器を配ったり神酒を注いだりしてまわった。
この儀式は、小さな酒器に注がれた一杯の神酒を飲むだけのことなのだが、飲むという表現が大げさに感じられるほどのわずかな量だ。
その神酒を飲んだあと、私の隣に座っていた人が「私、一滴も注いでもらえなかったんですけど、酒が足りなかったんですかね」と私にささやいた。私はわけがわからず、その場しのぎで「注ぎ加減を間違ったのかもしれませんね」と言葉をにごした。
式典が終了して解散したあと、総代だけで雑談をしていたらその話になった。するとT氏が、「おれ、クルマで来ている人が多かったから、注いでも飲まないと思って注いだかっこうだけしたよ」と〝白状〟した。
彼以外の総代三人は唖然とした。そして、それは大きなお世話だろうと批判した。当然だ。運転するから飲まないというのは注いでもらった人が判断することなのだ。
祭りの儀式と運転とは切り離して考えなければならない。はじめから注がないというのはおかしい。
そもそもT氏は、どの人がクルマで来ているのかということを把握していたわけではないし、仮に把握していたとしても、注ぐとか注がないとかを自分で判断するのは間違いだ。運転しないのに注いでもらえなかった人だっているのだ。
この行ないは気を遣ったことのように見えるがそうではない。筋違いの大きなお世話なのだ。式典の儀式の一つなのだから、氏子総代という立場としては注がなければならない。
結局T氏は非を認めて反省することになった。
もうひとつ、私が現役だったときの話。
私も関わっていた出版物の出版パーティーが県内某所で行なわれた。私と同等に関わっていた人たちも呼ばれていたので、その意味では私も呼ばれるはずだった。しかし、呼ばれなかった。
それが判明したのは、パーティーの数日後にかかってきた主催者からの電話でだった。「パーティー会場が(私の事務所から)遠いので、気の毒だと思って声をかけなかった」ということだった。
行き帰りの都合を考えてくれてのことであり、その気持ちはわかる。しかし、遠いとか近いとかは私が判断することなのだ。
仮に遠いからという理由で欠席するとしても、私が「これはちょっと遠いなあ」などとぶつぶつ言いながら、返信ハガキの「欠席」をまるで囲み、お祝いのひと言と欠席のお詫びを書き添えて投函すればいいことだ。
主催者側が招待者の行き帰りのことまで気を回すのは、気を遣っているようであり、こちらとしてもありがたいような気もするが、やはりちょっと違うと思う。
言い方を変えるなら、出版物が完成するまでの労苦を労い、感謝の意を表すという礼を欠いたことになるのではないか。パーティー開催の意味と招待者の都合とは別問題だ。
ただし、主催者が「凡筆堂は関わりが浅かったし、招待するほどではないな」とでも思っていたなら話は別だ。事実がどうであろうと、関係の深さや重要さ、招待するかしないかなどを判断するのは主催者の自由なのだから。
でも、同等に関わっていた人たちが招待されているのに、自分だけが外されたとしたら、理由はどうあれ虚しいけれど。
気の遣い方も、ときにはむずかしいことがある。