十年一昔というけれど
昨日、次は何を書こうかと、ない知恵を絞っていたら、凡筆堂版故事ことわざ辞典で「十年一昔」をネタにしようと思いついた。
しかし、途中で考えが変わってこっちへ持ってきた。ほんのちょっと掘り下げてみたくなったからだ。
いつのころからか「十年一昔」という言い方を見聞きすることが少なくなったように思う。きっと廃れてしまったのだ。それこそ一昔前の遺物となってしまったに違いない。
一昔が十年なのは、十進法でちょうど区切りがいいからだと推測できる。よほどのへそ曲がりでもないかぎり「八年半一昔」などいう成句は考えつかないはずだ。
そしてその作者は、うまいぐあいに「一昔」という相性のいい言葉を思いついた。一昔は、「一区切り」や「一苦労」などと同じ仕事仲間だ。
この成句を考えた人物が「しめしめ、これでしばらく存在感を示せるぞ」と思ったかどうかわからないが、とにかく長い間浮世を闊歩してきた。ところが、時代の流れについていくことができず、影が薄れてきた。
そんな状況を察してかどうか、2019年に日本リサーチセンターがインターネットで「〝一昔〟は何年前ですか」という調査を行なった。対象は全国の18歳から79歳までの男女1200人。結果はなかなか興味深いものであった。
1位は「5年」で33パーセント、3人に1人だ。10年のちょうど半分に切り詰められてしまった。2位は「3年」で19パーセント。ほぼ5人に1人。ちなみに「10年半以上」と回答した人が4パーセントいたという。
肝心の「10年」は3位で、わずか15パーセントと低迷した。それとも、よくぞ3位にとどまったと考えるべきか。
こうした状況を「情報技術の発展や社会の変化によって、世の中の移り変わりが早くなっていることが原因」と分析しているようだが、なんにせよ、せわしくなったと言えるのではないか。
ところで、アンケートでは「1年」と答えた人が8パーセントいたという。8パーセントという割合を多いと捉えるか少ないと捉えるかはさておき、たった1年で一昔としてしまうのは違和感がある。昨年のできごとがもう「一昔前」になってしまうのだ。
苦しいときの辞書だのみ、というわけでいくつか引いてみた。
「もう昔だと感じられる程度の過去。普通、十年ぐらい前」(岩波国語辞典)。「一応、昔とみなされるほどの過去。ふつう一○年くらい前をいう」(旺文社国語辞典)、「もう昔のことだと思われるほどの過去。ふつう十年前を言う。二十年たつと『二昔』(ふたむかし)とも言う」(三省堂国語辞典)。
こういったあたりがオーソドックスなところだが、やはり曖昧さはぬぐえず、漠然としている。
そんななかで新明解国語辞典(三省堂)は少々異色で、「物価の変動や子供の成長などから漠然と考えられる一時代前の過去」とある。これは一歩踏み込んだ解釈だ。「十年」が出てこない代わりに「一時代」が登場した。
では「一時代」とはどういうものか。わくわくしながら引いてみたら「一つの時代」とあった。わくわくして損しちゃった。
ただし、「一時代」にはもう一つの意味があり、「ある人物や事物が特定の分野で功績を上げて多大な影響力を持っていた期間」と説明されていた。なるほど、と思うが、とりあえず本稿のテーマからは外れる。
結果としてはこんなところで、やはりきっちりとした線引きはできない。特に決まりがあるわけでもなく、結局、「十年」をどう捉えるかは人によるということのようだ。
ところで、直接の関係はないが、以前私が作った小咄をひとつ。
小学生が雑談していた。
1年生「昔はよかったなあ」
2年生「ほんと、年は取りたくないよな」
3年生「いい若いもんが何言ってんだ」
おそまつでした。