悪の凡庸さに抗う
この間、入管法改悪反対のデモに行った。そして悟った、この問題を引き起こしているのは、単に入管職員ではなく、この国に根付いた(特に有色人種の)外国人への差別意識、そしてマリアナ海溝よりも深い「無関心」だと。これは、日本にいる外国人の問題ではなく、日本国籍を持って基本的な権利において何不自由なく過ごしている私たちの問題なんだと思った。
社会問題において、マイノリティが自身の経験をもとにして声を上げることは多くある。#MeToo運動、Black Lives Matter、広島・長崎を拠点とした反核運動など。ジェンダー、人種、出身地などのアイデンティティを行動の理由として活動するモデルが目立つ。
逆に、いわゆる「非当事者」が声を上げるケースは限られているように感じる。男性によるジェンダー平等に向けた動きや、白人を主体とした人種差別問題に取り組む動き、被爆地以外から核問題を考える動きは、どれだけあるだろうか。
もちろん、アイデンティティを軸として社会運動を展開することを否定したいわけではない。人の心を動かすときに、個人の経験というナラティブは力強い。
しかし、それだけに運動を限定するには二つの問題点があると感じる。
一つは、個人の経験が、運動のためにしばしば消費されること。活動家が自身の経験をシェアするとき、多くが望んで発信をしているだろう。その言葉の力は偉大だ。
しかし、自分のコアな部分(性被害や差別の経験など)を発信して時にジャッジされたり、その側面のみを取り上げられて判断されることは、心理的負担を伴う。たとえ自らの意思で自分の経験を発信していたとしても、自分が本当に大丈夫かは、そのときに確実にわかるわけではない。積もり積もった心理的負担が、のちに身体に影響を及ぼすこともある。
残念ながら、活動する人の多くがバーンアウト(燃え尽き症候群)を経験する。自分も、周りの活動家たちが自身の経験をもとに声を上げて戦い続け、疲労し、心身のバランスを崩していくのをたくさん見てきた。
二つ目に、アイデンティティをもとにした活動には、活動のための「理由」が求められてしまうことだ。例えば、核廃絶の活動の中では「被爆地出身なのか?」を必ずといっていいほど聞かれる。そして、「広島/長崎出身です」とか「被爆三世です」とか言うと、多くの場合「なるほど」というリアクションをされる。
しかし、問題に当事者/非当事者の区分をつけてしまうと、運動の主体が限られてしまう。参加する人の属性が限られることで、運動はどんどん象牙の塔にこもっていき、鋭さを失う。
特に二つ目の問題点について、よく考える。
ジェンダー問題、特にフェミニズムは、「女性の問題」とされてしまいがちだし、活動している人も、女性が圧倒的に多い。名前の問題だろうか。
しかし、誰も性別によって不利益を被らない社会を作ろうと思ったら、非当事者なんていなくて、今権力を持っている層や、ステレオタイプを持っているすべての人が関わってくることだ。だって、性別から無関係な人はいない。
もちろん、特に厳しい状況に置かれている人の声を聞くことはとても重要だ。しかし、運動に参加する際に、属性を問い、(間接的にでも)排除することは違うのではないかと感じるのだ。
それが変わらない限り、ただでさえ苦しんでいるマイノリティが、声を上げ続けて、マジョリティは「しょうがないから聞いてあげよう」と他人事で、社会が変わるスピードはナマケモノよりも遅く、マイノリティは消耗していくだけだ。
そんな理由で、私は社会問題こそ、マジョリティの問題だと思う。
でもそこには大きな壁が二つある。
そもそも、社会運動に参加するのはどうしてマイノリティが多いか?それは、自身の権利のために運動せざるを得ないからだ。反対に、マジョリティは「問題について考える必要がない」という特権を持っている。
そりゃ考える必要がなければ、わざわざ労力をかけて取り組まないか、と限界を感じることもある。
そして二つ目に、マジョリティ/マイノリティと分けることもまた難しい。少なからず、個人の中にマジョリティ性、マイノリティ性はどちらも存在する。たとえば私は、女性というマイノリティ性と、日本に住む日本国籍保有者というマジョリティ性を併せ持っている。
そんな難しさを抱えつつ、構造的に(時に無意識に)誰かを抑圧するシステム:「凡庸な悪」に抗うためには、ひとりひとりが自分の特権を自覚することが必要なんだろうなと思う。
その方法を、これから人生をかけて考えていきたい。