午前10時のミッドナイトスワン
こんにちは、とんです。
ご覧いただきありがとうございます。
今朝一番に、映画「ミッドナイトスワン」を観てきました。
noteで5回ミッドナイトスワン観たみたいな人がいて、5回はさすがに行きすぎでしょ〜と思っていたのですが、
開始5分で大号泣です。馬鹿みたいに。
全ての生きづらい人に観てほしい、そんな映画でした。
感想や見どころ、考察をまとめてみたいと思います。
初めからかなりネタバレを含みますのでご注意ください。
凪沙(草彅剛)は最初から最後まで、女性に見えました。
動きや喋り方はもちろんのこと、なにか雰囲気というか、本当に女性よりも女性らしい立ち居ふるまいで、さすがの演技力だなと感心しました。
オカマバーでおじさんが女性に向かって、「オカマの方が女っぽいなんておかしいだろ」と女性たちを囃し立てる場面がありましたが、本当に大多数の女性よりも凪沙の方が女性らしいと思います。なぜ生まれが男性だったというだけで、そんなふうに馬鹿にされないといけないのか。そんな疑問すら持ってしまいます。
また美しいのが一果(服部樹咲)のバレエシーン。
服部さんの横顔のラインが美しく、そのバレエの手足の動きも本当に綺麗だなと感じました。バレエに詳しくはないですが、よく観ていたフィギュアスケートと似たような美しさを覚えました。
一果がコンクールに出ている直前、親友のりん(上野鈴華)は親の知り合いの結婚パーティーらしき場所から一果に電話をかけます。
そして、そのパーティーの場で一果と同じタイミングで、同じ演目を踊り始めます。
この二人の遠隔での共演の美しいこと。
りんが一果のことを大切に思っていて応援してくれていることがわかります。
嫉妬とちょっとした出来心で意地悪をしたことがあっても、根っからいい子でりんというキャラクターがとても好きになりました。
女装で白鳥を着て踊る凪沙たちの舞台は、一昨日見た「彼女は夢で踊る」のストリップの舞台とそっくりでした。
同じバレエでも、一果が踊る舞台と凪沙が踊る舞台は全く違うものです。
こういってはなんですが凪沙の踊りはまるで見世物。客に馬鹿にされ、貶され、それでも仕事だからと割り切って踊るところは、ストリッパーと共通していると言えます。
ただしストリッパーの「人間の美しさを魅せる」という部分においては、一果のバレエの方が近いでしょう。
凪沙は子供の頃海に行って、どうして自分はスクール水着じゃなくて海パンなのかと泣いてしまった記憶があると言います。ここでの大きな差異の一つは、胸が見えるか見えないか。凪沙は女性として、子供ながらに胸を出すのが恥ずかしかったのではないでしょうか。
それに対して、凪沙が性転換手術をして実家に帰ったとき、凪沙の膨らんだ乳房が露わになり、このときは堂々と胸を隠さずに見せています。
これが自分の本来の姿である、これが私だと、自信が持てたのではないかなと感じました。
この場面で母親は悲鳴をあげ、一果の母は「化物!」と叫びます。
私はこのシーンにどうしようもない怒りを覚えました。
同時に、仮に私が乳房と子宮を取り除いて母に見せたら、母はどんな顔をするだろうと、とても怖くなりました。
どうして心と体に違和感があるだけで、こんな辱めを受けなければいけないのか。カミングアウトだとかいって人に伝えないと生きづらいのか。違和感のあるなしで生き方はこんなに違わなければいけないのか。
凪沙たちの、「どうして私だけが」という苦悩が胸に響きます。
りんは先ほどのバレエの共演の後、とても美しく散りましたね。
映画中一番ぞくっとした場面です。
りんが散った理由はバレエができない絶望だけではありません。
そもそもりんはバレエが好きではなかったのだと思います。それよりも、母親から期待を受けられることが嬉しかった。それなのに、その母親の期待をもう受けられなくなるという絶望感が、りんの希死念慮を大きくします。
最後の場面ですら、母親はりんにほとんど関心を持ってませんでした。
さらに、親友の、しかも女の子にキスをしてしまった罪悪感もあったのではないでしょうか。
思春期真っ只中の中学生が、親友にキスをして、これはきっと「もうどんな顔を合わせたらいいのか分からない」ほどの一大事だと思います。
考えすぎかもしれませんが、「自分はセクシュアルマイノリティかもしれない」という不安もあったのかもしれません。
りんを中心に見ていくと、「大人に絶望する現代の若者」観がよくわかります。
そのりんの自殺を知って、一果が求めたのは「お母さん」でした。
舞台に母親が登ってきて一果を慰めますが、ここで求めていたのは本当に母親だったのでしょうか?
誰かわからないけれど、安全基地となるお母さん的存在としての凪沙を求めていたのではないでしょうか?
一果が母親を抱き返したところを考慮すると、一果も誰を求めていたのかはっきりしていなかったのかもしれません。しかし、この時すでに一果は凪沙を母親とみなしていたような気がします。
しかし凪沙はそのことには気付かず、本物の母親になるために性転換手術をします。
ちゃんと母親になろうと男として就職までしたのに、それでも「母親」にはなりきれていなかったのです。
かといって、女性になっても母親になることはできなかった。
そのまま手術の影響で体を壊してしまった凪沙。
一果に連れてきてもらった海では、母親になれたのでしょうか。
凪沙とは静かな海をイメージさせる名前ですが、凪沙はなぜこの名前を選んだのでしょうか。
母の象徴としての海を体現したかったからではないでしょうか。
母なる海、母なる凪沙として、女性・母として生きたいという気持ちの現れだったのではないでしょうか。
だとすると、きっと凪沙は海に来ることで母としての機能を十全に果たそうとしたのだと考えられます。
一果は凪沙が亡くなったその海で自分も海に突っ込んで行きますが、結局はバレエの舞台に戻ってきます。
親友であるりんと、母親である凪沙、二人も失ってなお一果はなにを糧に戻ってこられたのだろうと、ここだけが解けない疑問点です。
二人の死を乗り越えるほどの強さが、一果のどこにあったのだろう。
でも、生きていてくれて本当によかった。
本来の「白鳥の湖」では、最後にオデットと王子が結ばれるエンドと心中するエンドがあるそうですが、一果は心中しなかった。ハッピーエンドにたどり着くことができたのだと思います。
追記(2020/11/01)
たくさんの方にお読みいただいて嬉しいです。
これを書いた後YouTubeの予告や批評を見たのですが、予告はけっこう印象や構成が違いましたね。ストーリーの順序を変えてて、ちょっと戸惑いがありました。
またエガちゃんのコメントで「いいシーンが集まっている」というのがあったんですが、最近脚本の勉強してて「映画というのはいいシーンの重ね合わせ」って言われたのをやっと理解できました。エガちゃんは一果が舞台で止まってしまったのを緊張のせいと言っていましたが、わたしはりんの自殺を知ったからじゃないかなと思っています。このあとオデットを踊ることがわかっていて、「頼むから誰もりんの自殺のことを一果に伝えないでくれ」と思いながら見ていたせいもあるかもしれません。ただの緊張なのかもしれません。わかりません。
あと、どこかで見たコメントで「海で一果は死んでいて、最後は一果が本当に見たかった架空の未来」という解釈がありましたがめちゃくちゃいいと思いました。それにしては「一年も帰ってない」というのがストイックでリアルすぎるという違和感は少しありますが、この解釈はいわゆる『白鳥の湖』のバッドエンドパターンと言えるでしょう。
長文になりましたが、読んでいただいてありがとうございました。
開始5分から、終了後までずっと泣きっぱなしで、人生の中で5本の指に入るくらい好きな映画です。
もうすぐ多くの劇場では公開が終わってしまいます。
この機会にぜひ、観に行ってみてください。
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