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平等のために、人は法《コード》に支配されていく: コードギアス反逆のルルーシュ 感想

「撃っていいのは、撃たれる覚悟のあるやつだけだ」
「戦略が戦術につぶされてたまるか」

たぶん、軍事オタクが言ったんだな。

ボンクラヲタクはこの作品をみるまでず〜っとそう考えて生きてきた。
それがなんとコードギアスからだった。知ったのは、本当に最近のことだ。

なんでコードギアスを今更見たのかというと、実はホロライブの大空スバルさんが同時視聴で見始めている、という話がきっかけだった。彼女がさまざまな感情をごたまぜにしながら感想を話していた。なら、きっと面白いに違いない。

私はこれまでコードギアスを見ていなかった。積極的に大河内一楼さんの作品を避けていたからだ。

ボンクラヲタクの過去と存在しない記憶

私はかつて、大河内一楼さんが副構成をしていたギルティクラウンで、正真正銘の地獄に叩き落とされた。寝ても覚めても、その地獄は消えない。なぜなら地獄はこの頭の中に広がってしまったから。

そこで私はこの地獄を書き直す過程で、つまりギルクラを書き直す過程で、作家じみた人生に入り込んでしまった。
詳しくは以下の記事で回顧録にしている。

要するにコードギアスを見るのが本当に怖かったのだ。ギルクラで絶望的な展開で終わって以来、正直にいえば強い憎しみを抱えて生きてきていた。

なぜギルクラをあんなコンセプトで進行させてしまったのか、と問わずにはいられそうになかった。それでコードギアスを見たら、ギルクラの時の怒りが、絶望が、フラッシュバックしそうだった。

破綻することが決まったプロジェクトを前にしたメンバーのような調子だ。私は無関係な視聴者でしかなかったので、厄介以外の何者でもない。だからこそ、人の世で生きていく以上は当面避けなければならなかった。逃げればひとつ、ってわけだ。

結局二度ギルクラの改変をおこなっていく過程でギルクラをどうにか全話見返せるようになっていき、インタビューも読めるようになっていき、当時の状況を理解していくなかで、怒りや絶望は共感に変わっていき、共感は納得に変わった。

いまは穏やかな気持ちと、だらだらリーマンにとってかけがえのないスキルとセンスを会得するに至った。今のわたしはコンピュータにギアスを与える電子世界の権力者、プログラマーだ。進めばふたつ。その言葉は正しかった。ありがとう大河内さん。

それと水星の魔女がものすごくおもしろかった。それで、大河内さんが主構成担当の作品なら面白いはずだと思って見始めることができた。

そこで私は、初めて見る作品のはずなのに、信じられないくらい懐かしく感じた。自分がギルティクラウンを二度改変するにあたって考えてたコンセプトが、コードギアスのなかにすべて揃っていたのだ。

私はギルクラを改変するにあたって、いのりや真名が生きていていい世界をつくろうと考えていた。そのために主人公である集と涯は、世界を作りなおす側に、果てにバケモノと呼ばれるに至らせようと考えていた。

コードギアスもまた、ルルーシュがナナリーの生きていていい世界をつくる。そのためにルルーシュとスザクはゼロになろうが、最強の独裁者になろうが、その果てに死のうがかまわない。

私はギルクラ改変を通して、先祖返り、隔世遺伝を果たしていたことに気づく。瞬間ボンクラに溢れ出した、存在しない記憶。

将来はITエンジニアかコンサルってところか。
いつも彼は「作家」とは言わなかった。

どうやら僕たちは、親族のようだった。

茶番はこのあたりにして、ギルクラを書き直していくなか、オリジナル作品を書くなかで罪とは、それを定義する法とは何かを探り、手にしてきた知識とともに、コードギアスの感想をまとめていこうと思う。

マックス・ウェーバーの見出した近代的資本主義の起源

マックス・ウェーバーは、PSYCHO-PASSにおける雑賀《さいが》おじさんの引用のときに出てきた比較社会学おじさんだ。そして私もまた、そのおじさんの言葉を引用する日が来てしまった。こんなボンクラヲタクも知的に見えるね!

いいとこ綾小路きみまろ構文:中高生と中高年というたのしい比較社会学、その劣化コピーしか私には提供できないわけだが。

たまたま私が読み始めた本、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」において、マックス・ウェーバーはこう語る。

近代資本主義の萌芽は、オリエントや古典古代とは違って、徹底的に資本に絶対的な経済学説が公然と支配してきた地域に求めねばならない。

[中略]

[中国では]異端裁判は確かに見られた。けれども、少なくともカルヴァン派ピュウリタニズムの不寛容に比べれば宗教的寛容の程度ははるかにひろく、財貨交易の自由ははるかに大きく、安全、移動の自由、職業選択および生産方法の自由なども存在し、商人根性に対する反感もおよそ見られなかった。が、しかし、こうした事情をもってしても中国においては近代資本主義を発生させるにはいたらなかった。このようにして、『営利衝動』とか、富のはなはだしい、いや排他的な尊重とか、あるいはまた功利主義的『合理主義』といったものも、ただそれだけではまだまだ近代資本主義とは無縁なものだという事実を、このまさしく典型的な営利の国土においてわれわれは学び知ることができる。

マックス・ヴェーバー 著  大塚久雄 訳「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」

まあ要するに、民主主義を含有する、近代的資本主義を生み出した起源は潔癖主義《ピューリタニズム》、つまりクソ真面目系プロテスタントにあるのではないかというわけだ。

このクソ真面目系というのは、学校で不評な学級委員長とか、意味不明校則強制生徒指導系先生とは違う。さらに、エンドユーザーの大敵にして経営陣に嘘と沈黙を発動してアラートも出せない無能の太陽、ヒラメ社員同志やヒラメ管理職同志とも違う。彼らのように、承認欲求と権威主義ゆえのヌルさはない。

聖書の教えに反すれば、現代の刑法の数億倍身勝手に罰を下しまくる。そんなことをしてたのが、カルヴァンおじさんというらしい。そのカルヴァンおじさんがつくってきた派閥がカルヴァン派だ。カルヴァン派全員がカルヴァンおじさんのように恐怖政治をしていたわけではなさそうだが。

そんなカルヴァン派プロテスタント達にこそ、民主主義を含有する、近代的資本主義を生み出した起源があるのではないのか?というわけだ。そんな起源説聞きたくなかった。

ただ、他の社会や地域で民主主義を含有する近代的資本主義を生み出したところをこのボンクラヲタクは確かに知らない。

どの文明においても、その地域の権力者、つまり国王とか皇帝とかが主権を持つのであって、せいぜいが権力の分割、封建しかなかった。そこでも確かに商業含める経済活動は間違いなく行われていたはずだった。しかし経済活動の主体は国家がいまの世界以上に支配的だった。

名誉革命にしろブルジョワ革命にしろ、すべて西洋において、かつカルヴァン派のあとに発生している。その全てを経なければ、いまこの文章をつくるiMacやiPhoneを、あくまで企業が国家間《インター・ナショナル》で製造を行うことは不可能だったはずだ。

カルヴァン派である彼らは、袂を分つこととなったカトリックに求めていたのは、規範からの解放ではない。その逆で、規範で自他を束縛することを求めた。

民主国家に生きる我々、実は潔癖主義《ピューリタニズム》側?


民主国家に生きる我々も、実は潔癖主義《ピューリタニズム》みたいなところがある。自他共に絶対遵守しているのは、聖書に代わり各国の法律であり、それぞれに結ばれたり国連で定義された国際法であり、私人同士の契約行為もまた自由と認められた世界観で、本当に暮らしている。

平等のために、人は法《コード》に支配されているのだ。

誰もが平等であると宣言し、宗教の自由を認められたその代わりに、憲法を背景に、常に改定されることを前提とした法律の支配下に自らと他者がいることを前提とする。仮にその前提が覆されることになるとしても、全てに因果応報が成就される世界を自らの意志でつくりつづけることによって、安定的な暮らしを享受できる。

つまり、どこの誰とも知らぬこのボンクラヲタクを、誰もが知らない人だからとのけものにすることはない。これだけでもなんで優しい世界なんだ、と思う。

それだけでなく、電車での移動にしろ、料理にしろ、電気やガスにしろ契約してくれるし、提供してくれている。そこで働き、提供してくれる人たちのおかげだし、それを形作る法を、誰もが価値あるものだと認めているからこそ、法に信認があるからこそ、成立しうる。

確かに独裁者によっても似た世界はつくれるだろう。
けれどその世界は独裁者のセンスが弱ければ、どこかで綻びが生まれる。

自らに法の縛りを与えるなんて修行僧か何かなんか?と思いこそするが、案外そうしたほうが、産業においてこそうまくいくのだ。

潔癖主義《ピューリタニズム》的な束縛の上で成り立つソフトウェア産業

現代産業において最も法を、規範そのものを操作することに近いソフトウェア産業ですら、多くの人が参加し、積極的に自らに規範を当てはめることによって成立している。

クラウド技術の中枢であるLinuxカーネルですら、ver.1のまま動いているわけではない。いまはすでに6.1.9まで進んでいる。それまでに多くの人々による修正をおこなってきたからこそ、いまはなんとAndroidの中枢にもなりうる汎用性の高さを持つのだ。

これは元サン・マイクロシステムズ、現Oracle社のUnixオペレーティングシステムSolarisではできなかったことだ。彼らすらも、Linuxカーネルの修正に大規模に参加していることが、その証だ。それはつまり、権力者も含めてOSSの規律によって束縛されることを、かのリーナスやOracle社すらも積極的にしているからこそ成立している。

で、そんな世界を参考にすれば、以下のような潔癖主義《ピューリタニズム》的な戒めが富を作る理由もわかっていくはずだ。

賃上げをする前に、そして要求する前に。

そのスタバとラーメンと菓子をやめろ。
ブランドものへの納税をやめろ。

タワマンとかいう、うさぎ小屋を買うな。
節約したぶん投資として貯金しろ。

インターネットで仕事の仕方を教わるくらいなら、インターネットをやめろ。
大型書店の、専門分野《ドメイン》のコーナーに行け。
いますぐ専門家《ドメインエキスパート》になってみんなに貢献しろ。

ボンクラヲタク略してクラヲ「じぶんへ」


贅沢は豊かさの敵?

逆に、積極的に自らの規範を解こうとする類は、たいていの場合はうまくいかない。贅沢は敵なのだ。なんと豊かさの。

責任から逃れるためのセクショナリズムに溢れるジョブ・ディスクリプションは、エンドユーザーを見えなくしていく。管理とは人間が構想し常に文書に収まるほど容易なものではない。

ジョブ・ディスクリプション通りにブルーカラーが定時退社しても、ジョブディスクリプションを書くホワイトカラーは結局、皺寄せを吸収し、明日も事業がうまくいきますようにと祈りながら修行僧の如く残業しまくってる。ホワイトカラーのそれは「祈りかつ働け」、ウェーバーがいう「行動的禁欲」の暮らしだ。

ただ多能工化というトヨタが推進するスタイルをどの職においても採用してがんばってる日本の多くの皆さんの場合は、自分がホワイトカラーかブルーカラーかも関わらず、果てにわかることもなく、こんな凄まじい、人のために働く尊い暮らしをしているはずだ。いつもありがとうございます。おかげでこのボンクラヲタクは真性ぼっちでも生きられてます。

相場を言い訳にしたジョブ・ディスクリプションの割に高すぎる月給や役員報酬は、企業におけるエンドユーザーへの還元を大幅に阻害する。スタートアップやワンマン経営、特定の役職や担当のみ有利な月給やインセンティブが失敗するのはだいたいこのせいだ。

税金を免税によって徴収しないとか、補助金とかがあったとしても、たいてい企業の財布からは株主還元やら上記の報酬に消え去ることが多い。ごく少人数による経済活動などで、未曾有の不景気における最後の客の役を、果たせるはずがない。

イギリスのトラスは本気でこの政策をぶち上げたが、国家の財政破綻を不安視されて通貨、株価、債券のストップ安で44日で首相をやめるしかなくなった。不景気で苦しむ市場が政府に求めていたのは、今なお強力な財源を持つ政府が、最後の客になる事だったのだ。

かくして強欲ゆえに規範に無頓着な資本主義の行き着く先は、アメリカの微妙な企業が車と金融とITで証明し続けているように、だいたいはレイオフなのだ。組織には強欲を肯定した為政者も、経営者も、労働者も、ほとんど残れない。そのくせみんなに不評な学級委員長やヒラメ同志しか生き残れないとは、なんと皮肉なことか。

絶対遵守のギアスが暴力政治世界と自らを終わらせる

マックス・ウェーバーのいうように友達なくすくらいまで、誰にも彼にも聖書の教えを強制するクソ真面目であることこそが近代的資本主義の源泉であるのだとする。

絶対遵守のギアスが暴力政治世界を破壊し、世界を救ってしまうのもまた、なんとも皮肉ながら噛み合ってしまうことになる。しかしその未来に、ルルーシュはいない。王の力といわれるだけあって、ギアスが強力すぎるのだ。

ギアスが強くなると力に溺れていくというのは、たぶん経路依存性に由来する問題なのだと思う。ギアスが強力であればあるほどそのボタンを繰り返し押していくわけだが、結果としてギアス以外の選択肢を考慮しないことによって不完全な結果をつくりはじめてしまう。

そうしてギアスを使う人間はふつうは世捨て人になる。可愛い系ファム・ファタールピザ星人C.C.《シーツー》とか、そんなアイドルC.C.の全肯定ASMRを聴くことでどうにか周囲の心の声をかき消し、自分の世界に閉じこもり続けるマオとかだ。

世捨て人ではなく権力者のままでいるケースは、むしろギアスを可能な限り自制して使わないことでどうにかしている。ルルーシュの両親は典型的だし、ルルーシュも自らのギアスが人に一度しか使えないこともあって利用はかなり控えめだ。

そうして自制していたとしても、ここぞとばかりに自分の願いのために人を操縦するのだから、まあそんなやりかたで生き延びられるはずがない。

そのやりかたで生き延びられるのは、人を操縦する人を狩る仕事をしている破壊サークル活動をしている最中だけで、未来においてギアスのせいで不利益を被ったことに誰かが気付けば、C.C.のような世捨て人か囚人の道しかない。

ルソーはそんなギアスユーザーを皮肉るかのように、社会契約論の冒頭でこう端的に表現する。

しかし力が振るわれなくなると消失してしまう権利とは、そもそもどんなものだろうか。力を振るわれるから服従するのであれば、義務によって服従する必要などないだろう。そして力によって服従させられなくなれば、もはや服従する義務などないのである。

ルソー 著 中山元 訳「社会契約論 / ジュネーブ草稿」

そんなわけで、ルルーシュの両親を狩り、コードギアス版核兵器フレイヤを使用するナナリーからそのシステム操縦権を手にしたルルーシュの待っている世界は、どこまで行ってもゼロ・レクイエム直前の世界しか存在しない。

なら、ルルーシュとスザクはなぜゼロ・レクイエムを果たすことにしたのだろうか?


ゼロ・レクイエムが果たすルルーシュの願い

ルルーシュが彼らの親族よりも明らかによく理解していたのは、こういうことだった。
「撃っていいのは、撃たれる覚悟のあるやつだけだ」

このあたりもちゃんと本編で出てくるから、みんなの納得感も凄まじいのだと思う。実際私もまさかこのセリフで締めにかかってくるとは思わなかった。私が元ネタを知らない状態でもこのフレーズを聞くに至ったのは、きっとこれだけよくできた物語だったからだろう。

最大の独裁者が敗れたゼロ・レクイエムのあと、かつてルルーシュがゼロとして保護していたEUを含む国家群は再活性化するのだろう。力による支配は消え去り、暴力政治は終わり、残るのは契約と権利と義務のみ。そうして希望を持って、コードギアス反逆のルルーシュは幕を閉じていく。

そこに広がるのは、ルルーシュがギアスなしに人類へ発動させた願いが動き続ける世界だ。

力による支配なき世界。
ルルーシュは、コードユーザーになるまでもなく、達成人と呼ばれる何かに至るわけでもなく、永遠を生きる法《コード》に至ったのだ。

平等のために、人はルルーシュのつくりあげた法《コード》に支配されていくのだ。

おわりに

たまたま読んでいたマックス・ウェーバーの本とかルソーの本でこんなにこじつけができるなんて思わなかった。それはたぶん、コードギアスがそれだけ現実のモチーフとかを含めて深い洞察の果てに描き出された物語だったからかもしれない。

ギルクラと和解できたうえでコードギアスをみることができたからこそいまは穏やかな気持ちな気もするが、実はもっとはやくコードギアスを見ていたらギルクラ改変やらずに済んだんじゃないか、そもそもすぐ穏やかな気持ちになれたんじゃないかと疑いだしている。自分自身に法《コード》を課してくらす、こじらせオタクの生き方はそれはそれでよくないのだ。

だから私は、これからはもっともっと素直に、ふつうのひとのように生きていきたいと思っている。

それで、マオの聞いていたC.C.全肯定ASMRはどこでお買い求めできるのだろうか?


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