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このリアルさには、ワケがある: リコリス・リコイル感想

女の子が銃を握って戦う。

戦後いまだ国内が平和な日本においては、幸運にも矛盾と化している。だからこそ、これまで何度も扱われてきた、意外性の王道となっている。

だがリコリス・リコイルは、僕のようなつまらないミリタリーオタクが想像するような異常なまでに現代日本に寄せた世界観はあえて構築していないし、ガンアクションに強靭なリアリティを持たせる方針はあえて採用しておらず、むしろ映像的な華やかさ、ストーリーライン上での銃を撃つアクションタイミングの良さこそを第一基準にしている。

つまり、ある程度の世界観のリアリティは置いておいて、楽しんでもらえるように、というコンセプトでつくられているわけだ。

ガチガチの世界観へのアプローチをあえて採用してなくても僕たちはリコリコにハマっていた

この世界観に対する絶妙な期待の狂わせ方で僕は肩透かしを食らった。このあたりの世界観と物理法則ガチガチな作品は自分で書けばいいだけだ。僕は書いた。

書いたからこそ思う。ジョン・ウィックのようなガンアクションの再定義も、そこからストーリーに革新性をもたらすのも、やはり難しい。ガンアクション以外にも、かなり多方面へ世界観を拡張しなければならないのだと思う。

それでもリコリス・リコイルは不思議なリアルさを纏っている。とても広い世界のなかで暮らしているように感じる世界観だった。結局毎週楽しみに見ている自分がいたし、みんなも楽しそうにみていた。

僕たちがリコリコにハマっていたのは、なぜなのだろう?

千束とたきなのじゃれあいがかわいらしいのはまあ間違いない。それはそれとして、リコリスリコイル ヒロインアーカイブのインタビューに目を通したが、ヒットの要因はスタッフ内でも意見が別れており、謎なんです、とストーリー原案のアサウラさんも述べている。

足立監督をはじめとするみなさんのインタビューを読みながら、僕は考えた。わからないことはまだ多いが、これだけは言える。

このリアルさには、ワケがあるってことだ。

世界観をガチガチにつくるのは登場人物を生かすため

僕はこれまで、リアルな登場人物をつくるとき、現実の法則を可能な限り把握し、作品にほぼ全面的に導入し、神と人々のつくりだした法のなかで四苦八苦している現実の人々がフィクションのなかでいても問題ない状態にすることでリアルさを成立させるアプローチを採用してきた。つまり、キャラと世界観が分かち難く結びついている手法だ。

キャラは現実と同じように、法則と法則に縛られ、苦しむ。だから僕が世界を知るほど、指数関数的に書きやすくなっていく。そういったブーストを前提としているわけだ。

インターステラーやダークナイトトリロジーなどにおいても、我らがノーランおじさんも似たような手法を撮影に導入しているようだ。グリーンバックよりも、宇宙の果てのようなロケ地に実際に足を運んだり、大規模なセットをあえてつくり、役者自身を最初の観客として招き入れるかのようなアプローチを採用している。無限に等しい資本があろうが、なかなかこんな決断はしづらい。

そこで暮らしているような生き生きとしたリコリコの登場人物たち

たぶん、登場人物が不思議なくらい生き生きとしているのが、リアルさにつながっていると思う。このキャラが生き生きと暮らしているのが良くて、僕はリコリコにかじりついていたのは間違いない。ノーラン映画の役者たちのように、すごく自然な反応が私は大好きなのだ。

だからこそ、リコリコの登場人物の生き生きとした様子をつくりあげる手法には驚かされた。そうしたガチガチの世界観をつくるよりも、あえてお芝居っぽさよりも家族と話しているような雰囲気をアフレコを頼んでいたという側面、それがちゃんと活きるような状態で完成していたことだ。

ちゃんとお芝居としては成立しているわけだし、素人の自分がみていてもむしろこれまでのアニメやドラマ、映画より会話が自然に感じられる。セリフがセリフだとわかるお芝居は、確かにこの世には多い。

役者が映像でみる通りのしっかりつくりこまれたロケ地やセットで演技に挑む、というのはかなりレアケースであり、今回もアニメである以上はモニタにうつる映像しかなく、おまけに声優さんであるから、基本的に声の収録しか行えない。ふるまいはすべて事前(あるいは事後)にアニメーターさんが描いていくしかないから、声優さんのふるまいはアニメには反映されることはない。それでも登場人物のふるまいが、ごく自然に感じられるのはなぜなのか?

このあたりが足立監督だからこその部分が活きているのだろう。会話の間をかなり厳密に再設定していたのだ。

リコリコではあまりにも自然に会話が進んでいくので僕もこのインタビューを読むまで思い至っていなかったが、声優さんが一緒に芝居をするケースは多くない。というかそうするとスケジュール調整がまいにち宇宙ステーションのドッキング並みに困難になってしまう。なので個別に録ってしまうのが基本なはずだ。

するとどうなるかというと、音のはめ込みも基本的に監督および編集側で編集し直すしかない。ここが実写との根本的な違いなのだろう。足立監督がさらに進んでいたのは、この編集し直しをさらに厳密におこなっていた部分にあるのだと思う。リアリティを維持しつつ楽しい応酬を完成させているのだ。

これは私が漫画原作を書くにあたってネームを切っていたときに気づいたことだが、会話のなかでのセリフのやりとりや間、タイミングこそが意外性を作り上げる要素としては一番使いやすい。

短いセリフははじめは窮屈で苦しいものの、慣れると短いなりにテンポのよさにもつなげやすくなる。ギャグをここで挟めそうとか、ここで場面をジャンプできそうとか。小説より超高効率なセリフにつながっていく。

(漫画原作に関して詳しくは以下で書きました)

こうした「どうやって見せるか?」のアプローチをあえて繰り返すことで当初ハード寄りだったはずのリコリコは現在の穏やかで、ちょっと刺激的な日常の、千束とたきな、そしてみなさんが楽しそうに暮らす物語に至っている。

まさしく千束のごとく、型破りに人々へとアプローチしてつくりあげられた作品こそが、リコリコなのだろう。

だから僕は、ちさたきの福音(Twitter上での製作陣のみなさんのイラストや、ファンアートの数々の意味)を、リツイートによってあまねく世に広げていくのだ。


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