新宿放浪記:功利の原罪
要約
功利。功名と利得。要するに名声とか大量の金。たいてい手に入らないものであり、夢のひとつとして扱われる。
人はこの功利を求めて、今日もいちにち誤った認識で行動を続ける。Twitterを筆頭とするメディアで自分を誇張する嘘の設定で演じ、序列を盲信し、強欲に誤った投機的な言説を繰り返す。
そして、本物や現実との齟齬に傷つき、自分に序列の席が決して与えられないことに気づき、強欲に本物が偽物なのだという自己紹介の言説を、陰謀論として繰り返す。
そうしていまいる社会を信頼する方法を失い、暴言をまきちらす人々は組織化されていく。
先進国から発展途上国のあらゆる組織を蝕む厄介なもの。それが功利というものなんじゃないだろうか?というのを新宿を放浪しながら感じたことに基づいて書いていく、というのが、今回の記事となる。
こうした功利を求める行為に関して、僕は法や現実に反しない限りは無視してきたが、どうもそれだけだとまずいのかもしれないと思い始めている。
この功利への誤った認識が、誤った行為を自己承認させ、教育を無価値なものにし、統制崩壊を起こして、犯罪を引き起こしている可能性があるからだ。
我々はどのようにして、この功利を克服できるのだろうか?法という理想と違わぬ現実を作り出せるのだろうか?
空想と新宿の狭間で
いま僕は、ウクライナに侵攻してしまったロシア難民の子が国連の機関で教育を受けて戦闘機パイロットになる作品を書こうとしている。しかし、驚くほどうまくいっていない。
ロシアやウクライナまわりでいろいろ本を読んで試行錯誤してきたものの、それだけだとダメだということがわかってきた。
難民保護をはじめとした移民のことが、よくわからなくなっていた。だからこの「移民国家」としての日本という本をAmazonで買って読んでいた。
それで、あてもなく新宿を彷徨うことにした。新宿には移民も多く、観光客も多いからだ。
そうして彷徨っていたとき、いろんな新宿をみた。歌舞伎町。都庁前。大久保。社会の縮図のようなこの地を彷徨いながら、新宿の紀伊國屋書店に辿り着き、たくさんの本を買った。
夢から醒めないために「もの」にしがみつき序列の上を目指す新宿の人々
歌舞伎町アンダーグラウンドでは、歌舞伎町の人々の派手でありながら人形のように画一的な見た目が、自分自身の心を奮い立たせるものなのか、ということを考えさせられている。
キャバ嬢やホストはあれほどのお金を得ていながらも、その見た目をどこまで整えていようとも、新宿を歩いていた彼らはどこか苦しそうにみえた。
大久保の通りすがりの黒いシャツを着たホストたちの集団の香水は、あまりに生活感がなかった。それより大久保の路地をラフな姿で楽しげに誰かに電話しながら歩く茶髪の青年のほうが、まだ自分には現実と思わされる。
タメ口とはいえ、その電話相手もお客様だったのかもしれないけれど。
歌舞伎町アンダーグラウンドに出てくるキャバ嬢やホストは、まるで夢から醒めないために、貯金をせずに高値の服やバッグ、装飾品を買い集め、その人形のような美しく、けれど画一的な見た目を維持しているように思えてくる。
新宿の喫茶チェーンでナポリタンを食べてコーヒーを飲みながらこの本を読んでいると、横の席で自分たちの推しの話よりも自分の周囲のファンの話に終始するオタクがふたりいた。そんな彼女たちの言葉は断片的にしか聞こえなかったけど、どこか印象に残った。
推し活をしているはずだろうにどこか満たされていないように見えるそのふたりと、どこか苦しそうなキャバ嬢やホストたちの在り方が、見た目は違えどその雰囲気が被ったからだろう。
こうしたどこか苦しそうなキャバ嬢やホスト、オタクは共通して「もの」を持つが、その「もの」は、僕がみていると不釣り合いにすら思える。本来の彼らの人生と関わりがないものにみえるのだ。
東京駅を歩いているだけでもたくさんいる、ブランドもののバッグや服、iPhone14 Proに身につけさせられている人たちに近い。
では彼らがなぜそうして不釣り合いなものを手に何を目指しているのかというと、序列の上側になることを目指し続けているようにみえる。
トップを目指さない限りは消えていく、という話は歌舞伎町アンダーグラウンドにおけるキャバ嬢やホストたちにこそ語られる。
喫茶店で話していたオタクふたりについても、ずっと自分の身の振り方や厄介なファンの話に終始しているが、要はそのファンのなかで優位であると示したいという意図が透けて見えた。
推しについて本当に話したいことがあるのなら、推しの良さを語り合っているほうが自然だ。変な奴の話になれど、ずっとその話になるのはいささか不自然だ。それならまだ序列の上側にいたい、という思いのほうがまだ納得できる。
では強引にそうだと決めつけたところで、一体なぜ、新宿の人々は、いやほとんどの人々は序列の上位に行きたがるのだろうか?
それが、功利への誤った認識なんじゃないかと思っている。
誤った功利への認識のせいで、推し活も教育現場もリアリティショーになってきた?
新宿の喫茶店で歌舞伎町アンダーグラウンドを読んでいた、とは言ったが、もうひとつの本も読んでいて、そちらを読む時間のほうが圧倒的に長かった。
それが、下流志向だ。1941年にドイツの心理学者エーリッヒフロムが語った「自由からの逃走」のパロディとして、東大教育学部佐藤学氏により提唱された「学びからの逃走」に関してまとめられた本でもある。
要は可視化されつつある教育現場における統制崩壊の話だ。
この本の中で語られている問題を要約すると「半端な市場原理のメンタルモデルが、学習と労働の意味を殺している」ということのようだ。
それをより端的に言い換えれば、「功利的な行動が学習と労働の統制を崩壊させている」という内容だ。
睡眠学習が当然となったすべての講義、公立の学校で繰り返される学級崩壊、学習よりも就職が当然のように学校内で優先される現状について語られている。
教育者、すなわち先生というものは、教壇に立つだけで恐れられる存在ではない。敬意を自らの行動によって証明し続ける存在でなければならない。どんな仕事でも結局はそうだ。
役職にはこれまでの蓄積があるだけ。使いこなすのは本人の仕事だ。
先生でもまともな人はいるし、子どもにイキり散らしてばかりでまともな授業をできてない先生もいる。この本における一種のアンチパターンといえる確実な就職を謳う高専でこそ、ひどいのは何人かみたし、ひどいのはすぐに学校からいなくなった。
けれど、どうやって統制を維持するかということに関して、誰も真面目に教育者は教育者に教えていない。まともな先生ほど、この統制の維持を積極的に行ったものだが。
まともな先生は、積極的に演習や実習を行うことを推奨し、居眠りに対しては誰に対しても平等に厳しく言って、積極的に学生からの意見を求める土壌をつくっていた。
だがこのような取り組みはなかなかうまく共有できない。大根役者がぼそぼそセリフを言ったところでシーンが有効にならないのと同じだ。むしろ積極的に役作りをする努力を要請しなければならないが、まともな先生ほど忙しい。
というわけで大根役者の演じる先生が何をするかというと、学生をみることをやめる。行動としては、文字通り無視して授業を進行したり、離散的に小テストを出したり、ひいきなどの序列を使いだしたりする。当然学生をみてないから、こんなものうまくいくはずがない。
暴力におびえる学生が放置され、暴力をおこなう学生を隔離できず、そうした檻の中で、学生はじっと耐える。そのなかで決して目立たないように。
けれど目立たずにテストの点は稼ぎ成績は上げていい、という功利が生まれる。だから授業は荒れ果て、一夜漬けしたり外で塾に行くものが勝利する。いかなる成績や学歴なのかということが承認されるという勘違いが、学校という収容所のなかで起きる。
以上のことから、功利の誤った認識、つまり功利の原罪とは、不完全な組織の統制における個人の誤った防御反応なのではないだろうか?と考えている。
そうした誤った功利への認識が修正されることなく、学生は社会へと放流される。研究や部活、趣味やバイトなどでそうしたものの認識が改まったものだけが就職のときに優先して選ばれ、事実活躍することになるという現状は、枚挙にいとまがない。
こんなリアリティショーのようなことが、いまの教育現場では当たり前になっている。少なくとも僕のいた高専も、残念ながらこうだった。成績がよくて功利への誤った認識が強かった者ほど、自分にとって誤った企業に入り、すぐに病んで休職したり、退職したり、転職していった。
こうした教育現場の統制崩壊は、先進国から発展途上国のあらゆる組織を蝕む厄介なものとなっているようにすらみえる。アメリカでも「教育への失望」という表現でオバマも演説していたからだ。
そういうわけで、睡眠学習が当然となったすべての講義、公立の学校で繰り返される学級崩壊、学習よりも就職が当然のように学校内で優先されるといった現状は、統制崩壊の観点から必然に近かった。
そういった教育現場の悪夢がどんなふうになりうるかを知りたければ、よう実をみるとわかりやすいと思う。もはや国語や数学などの学問をやってない(ようにみせているのがたぶんうまい)。ただの序列合戦をおもしろおかしくやってる。
こうした序列合戦が繰り返されるようでは、どこかで不正な取引が行われても気づけないし、気づいたとしても手遅れだし、黙っているほうが得という誤った功利も働いてしまう。
では、誤った功利への認識はどのようにして克服できるのだろうか?不完全な組織の統制における個人の誤った防御反応は、いかにして解消できるのだろうか?
統制《ガバナンス》の再確立
不完全な組織の統制における個人の誤った防御反応こそが功利の原罪ならば、端的に組織の統制を完全にするのが第一優先事項となる。
端的に言って、他人の振り見て我が身を直せ、というわけだ。
とはいえ、これはやることまみれだ。そして、一番ろくな目にあわない立ち回りでもある。
だからこそ、行政にしろ企業にしろ、最も権限の強いものによる命令として処理できるように周囲から支持を得ることで、統制を壊そうとするものを屈服させ、厳しく隔離しなければならない。それに従って確実に実行されなければならない。
その代表格が、犯罪者を逮捕し、裁判にかけ、その刑を履行させるという仕事だ。警察についても、賄賂受け取りなどを行なっているものを即時逮捕するなどがわかりやすい。
同じように、暴言や暴行を行ったりそれを教唆したり幇助した学生を即時隔離するのも必要な行為だし、同じようなことをした先生も等しく隔離されなければならない。
オタ活においても、現在は特に侮辱罪に相当するようなものについては開示請求が行われ、和解となるようになってきたことでまずその犯罪は少しずつなくなりそうである。
ホストクラブやキャバクラにおける統制の確保を、各店舗に要請することがたぶん理想的なんだろうけれど、彼らもいまのやりかたで経済活動をしている。いずれ、行政主導で、なにかしらの法的な厳しい規制をかけるしかないのかもしれない。
実際に楽しんでいる顧客はいる。けれどそうしなければ、精神病で苦しんだり、激しい内臓の損傷を繰り返す数多くのホストやキャバ嬢が現れることを防ぐことはできないんじゃないか、なんてことも思う。
だがこれだけは言える。車が便利なんだとしても、毎日の労災を当然とした世界にはこの国の自動車工場はなっていない。
また、法に反していないのだとしても関心されない行為については、関係者全員に対し規則を設けて規制を行うというやりかたを取る必要もある。それが会社における規定類に相当する。
それ以外の細かいルールについては全員が履行していることを相互監視しなければならないだろう。履行できていないことが確認できれば、ルールの改正も含めて対処を検討しなければならない。
わかりやすい話でいくと、授業ごとで先生が変わる中学以降については先生間で厳しくその行為を監視することも含めて対処をしないといけないのかもしれない。
オタ活における民度なる話が仮にあったとしたら、まず自らの誤った活動を厳しく規制し、それを宣言して周囲の人から支持を取り付け、仮に親しい友達に誤った行為があったとしたら誤った行為だと指摘して直してもらうところまでしなければならないだろう。
本当の友達ならきっとできるはずだし、本気で民度なる話を考えているのなら同じことができるくらい他のファンのことも信頼できているはずだ。
こういう統制《ガバナンス》の再確立という名の予防は、まったくもって評判が悪いし、一番効果が測定されづらいので実施されるケースは少ない。
だが、ここを通らずして功利の誤った認識を止める方法もなく、犯罪を未然に防ぐこともままならないし、法に自律性が要求されていることを証明することもままならないだろう。
自律性を促せる、目的や目標を再定義した教育
はっきり言ってこれは統制の再確立中に同時実行できる。教育は幸運にも、さっきの統制さえできていれば潤沢に教材はあるからだ。文化的な蓄積に感謝しなければならない。
それに人は、恐怖に怯える必要のない、怯える必要がなくなっていく環境下において、本当に能動的に学ぶことができる。
とはいえ、適切に目的や目標を再定義できたときに限られる。
なお会社でITを教えてる経験上、序列や資格がらみの功利的な話には効果がなかった。そちらよりも、いま目の前で自分が手を動かさないといけないプロジェクトにおいて、どんなものを知らないといけないのか設定したうえで教えたほうが吸収は早かった。
なんだかんだ、人は役たたずと言われるよりは人の役に立ちたいものだ。
これは小中高の教育においては難しい部分であるが、たぶんやりかたはある。算数の必要性を学生に聞かれ、算数ができたら100円以内でお菓子を何個買えるかわかるよ、なんてプレゼンする必要がないからだ。
真逆だ。100円以内でお菓子を何個買えるか教えて欲しい、とするべきなのだと思う。
こうして実施する科目それぞれをプロジェクト化し、個別に課題を与え、そのために一緒に作業を行うという形式にしていくことは不可能ではない。
そう思いたいものの、その課題自体に疑問があるケースなんかは僕はよく経験してる。やめとけば〜?このやりかたがあるよ〜みたいなこととか仕事でも平気で言ってしまうしやってしまう。それを学生側につくってもらうというのがたぶんいいんだろうけど、相当授業は大変になりそうだ。
信頼をつくりあげていくという行為
いかなる手法をとるにしても、学生と先生は新しいことを学び、教えるためには向き合うしかない。
それを通し、成績だの学歴だの序列だのというしょうもない誤った功利的な認識を克服していくきっかけを、先生が学生と共に学びながらつくりだすことができれば、統制は再構成され、崩壊からは一歩ずつ遠ざかっていくはずだ。
それは、統制崩壊によって失われる信頼を再度形作る行為だ。
誤った功利の認識から始まり、陰謀論などの事実に基づかない政治的な運動や言動は結果的に無視されてきたり犯罪として処理されたりしてきたものだ。無視できなくてもヒトラーとかトランプみたいになっただけだった。結局、統制崩壊によって犯罪が起き、司法の手が介入する。
だからこそ、その運動や言動をみんなに聞いてもらうためにまずは自分のダメなところをなんとかするところから始めよう。そして、人にお願いしにいこう。そのとき、侮辱や名誉毀損の言葉は、きっと出ないはずだ。
なにより、誤った功利の認識を捨てるしかなくなるだろう。
法という理想と違わぬ現実を作り出すのは、そうした信頼をつくりあげていく行為の積み重ねなのだ。
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