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僕らは学ぶためにRPGの運命で死に続ける
RPGの暗闇の運命でしか学べない僕たち
僕は学ぶことがしぬほど嫌いだった。
代わりに、RPGはしぬほど好きだった。
僕は学校の授業を眠り、RPGの世界で生き続けていたのだ。
なぜだろう?
たぶん、RPGでしか、フィクションでしか、学ぶという行為を楽しむことができなかったからかもしれない。
この本を読みながら、ギャンブルとRPGを結びつけてそんなことを考え始めている。
インタビューをみると悲惨以外の何者でもない。本当に運が悪くて、被害者で、それでギャンブルにハマってしまっただけの人ばかりだ。彼らギャンブラーに必要なのはマシンよりも生活の保護であり、場合によっては隔離だ。
ギャンブルには金銭も伴うから明示的に法的な規制をしないとギャンブラーとギャンブル業界どちらも崩壊してしまうだろう。日本もまた賭博は規制対象であり、ソシャゲガチャすらも景品表示法に従って企業は規制され、ユーザーは保護されている状態にある。
そもそもギャンブルを楽しんでしまう理由は、ゲームを楽しみ続けているゾーンに入りたいからであり、以下の記事でこう結論を書いた。
ゾーンの要因となっているこの仮説推論、いわば対称性推論によるバイアスは、人の言語学習を支えてきたものだ。
だから人は言語を学べる学習能力が故に、この地獄のゾーンに入ってしまう。おそらく言語を理解できる誰にも例外はない。
「なぜRPG求道者は原神でガチャり続け、
完全没入《フルダイブ》してしまうのか?」
学ぶという延長線にゲームが、ギャンブルが、RPGがあるだけなのだ。
ではなぜ、人は正しいやりかたで、正しく学ぶことができないのだろう?
これほどまでにたくさんの大切な貯金を、食費を、未来を、RPGとガチャ確率の深淵に投げ続けてしまう人がたくさんいるのだろう?
そうまでして、破滅が確定したルート、既定路線、つまり暗闇のような運命の虚構に身を委ねてしまうのだろう?
最近ふと思いだせるようになったのは、現実のほうがRPGよりよっぽど理想的な光の世界かもしれないってことだ。
僕らはまぶしすぎる理想から目を背けたいのかもしれない。
自分の暗闇に慣れた目が光で焼き切れることを、避けるために。
動物としての、避けがたい本能だ。
僕は同僚が言ってた言葉を今更思い出す。
「RPGを通して、何かを得たい」
僕はそのとき、RPGのゾーンとしての性質ゆえに不可能だろう、と言った。
RPGがつくりだしているのは結局はスロットマシンのようなフォーマットでしかなくて、「剣と魔法」もまたそうした集金のためのフォーマットでしかないんじゃないかと。原神で僕は5万円溶かしている。
けれど「何か」が「世界の見かた」ならば、答えは変わる。
インセプションやTENETをやってのけたノーランおじさんはこの本の対談で、要約すれば「楽しくてスリル満点なSFを通して、人は世界をいままでと違った目でみることができる」と語っている。
ならば、「楽しくてスリル満点なRPGを通して、人は世界をいままでと違った目でみること」はできないのだろうか?
おそらく、できるのだ。
学ぶことに関してRPGの運命で殉じ続けるように何度も挫折を繰り返してきている僕の過去には、RPGと僕との学ぶためのすべての思い出が詰まっている。そのことを、だいぶ今更気がついた。
この記事は、RPGに埋没していくなかでITエンジニアになってしまった数奇な運命の、「世界の見かた」についての物語だ。
逆アルジャーノンに花束を
はじめのつまづきは、勉強するものがなんなのか理解できないところだった。
中学生の頃から、僕は数学と英語で先生の言ってることがわからなくなっていき、凄まじい成績の悪化を経験した。
アルジャーノンに花束を、の逆展開だ。
基礎といわれるこの数学と英語がわからないので、工学系の大学と工業学校のハイブリッド、工業高等専門学校の授業もてんでわからなくなってしまった。わからなくなっていく速度は加速するばかり。
逃げるように美大予備校にも通ってみたが、まあ似たようなものだ。デッサンにしろアクリル絵にしろ粘土にしろ、幾千の知識と経験の統合なのだ。多少オタクな絵がかけるだけでは、光を抱き続けられなかった。
絵に関して言えば、中学生の頃バクマンをみてすでに挫折していた。
絵がうまくなければ舞台にすら立てないという当たり前すぎる運命に、僕は何度も何度もうちのめされてきたからだ。
そして僕にとって、マンガをふくむフィクションは、一種の運命論のように思えていた。
強くなきゃ物語になれない。そこに僕の居場所は、見当たらないのだ。
そんな運命論のフィクションを、僕は常に毛嫌いし続けてきた。
かといって、自由を語る理想にもまた、僕の居場所は見当たらない。
学問が世の中の便利さをつくりだしているのもわかっちゃいる。
学問とそれが導き出す理想がおもしろいものなんだろう、というのもちょっとした実験実習からわかる。
だが、聞いても実践してもわからない。
自分に身に付く気がしなかった。
身に余る光に、僕は怯え、諦めるしかなかったのだ。
オバマおじさんの大統領選挙における勝利演説を、中学生の頃にニュースかなんかで聞いたことがある。これが民主主義、アメリカなんだ、すごいなあ、と思った記憶がある。
そこで語られた彼の演説は、校長先生の長話より長かったので覚えてはいない。いまになって買い直した英語原文と日本翻訳文をみて、やっと思い出せる。
けれど、彼の語る言葉の中に、彼の作り出す世界に、僕がいられるとは思えなくなっていった。成績が振るわず、勉強のできない僕に、理想の世界たる現実の居場所は、与えられなさそうだった。
やがて僕は夢や理想という民主主義で実際に動く現実に居場所を失った。
そして、運命という、弱肉強食の帝国主義な虚構の旅の中で、いずれ居るべき場所に辿り着くと考え始めた。
僕は都市のなかで、自分の居場所を探す旅を始めた。
いま振り返ってみれば、教えている教師たち、大人たち自身も、自分が教えていた光を深く理解し、使いこなしていたかどうか怪しい。
むしろ威光を借り、そのくせ期待に応えようとしない偽預言者のようにすらみえて、僕はそんな大人を毛嫌いした。残念ながら、いまもかもしれないが。
そうした僕が毛嫌いした大人たちの偏見パレードを知りたいのなら、自分の先生としての努力不足、すなわち罪をすべて学生に押し付けるこの本が参考になるかもしれない。
今になって思うが、彼ら毛嫌いする大人もまた、出来の悪い子どもと似たり寄ったりだ。自分を棚上げできるからこそ、人は自らを苦しめる呪詛を他人に与えられる。やがてその呪詛で自らを破滅させるけれど。
とはいえ、質問が要領を得ない場合、得られるサポートは大したことがないのも事実だ。だから質問の解答はいつも要領を得ないもので、僕は質問をするごとに失望していく。
やがて僕は出来の悪い大人に懲りて、わからないことはあきらめる、そんな悲惨な処世術を学んだ。
太陽は直視できない、だから空は一度も見上げるべきではない。
それが僕のみじめな思考回路だった。
やがて空の広さを忘れ、眼下に広がる巨大な地獄が自分の運命になっていった。
ギルクラという深淵に幻想を満たす道
そんな思考回路の迷路に入りかけていた頃に、ギルクラを見た。
そしてこの物語の主人公、桜満集に現実のどうしようもない自分を、自分の選んだどうしようもない破滅の運命の世界を、深淵を、見出していた。
だからこそ、全部否定したいと思った。
この深淵を、幻想で満たさねばならないと思った。
桜満集のようにただおびえて、すべてを手に入れた時にすべてが間に合わなくならないようにするために何かのスキルを獲得したいと絵を描き始めたのかもしれない。
楪いのりが生きていていい別の未来をつくりだすために、高専とは異なる新たな道に入らなければならないと、プロデューサーのような何かになろうと考えたのかもしれない。
とはいえ、普通高校でもないから進路変更は厳しいし、アニメ業界が安月給なことは十分承知していた。
ただ、半沢直樹の悪役からパワハラを受け続けながら役に立たないITシステムを組む気にもなれなかった。
心療内科や精神科に通うことになれば、キャッシュフローはIT屋でもアニメ業界に殉ずるときと同じになってしまうと考えていたのかもしれない。少なくとも出来のいいと大人から評された、僕から見て出来の悪い先輩たちは、みんなそんな運命を辿ったようだった。
とはいえ、理想を抱いても良い先生と出会えるわけがないし、手ほどきを受けられるわけじゃない。
僕は気づかぬままに自分で自分の運命を選んでいたからだ。
ただひとり、オバマおじさんのいる光の世界に向かって旅を始めたのだ。
理想世界の受刑者のような学生時代
学校と家はいつしか、監獄になっていった。
受刑者の僕は、何かの罪を償い続けている。たぶん、自分が成績不良であるということの罪を。現実で学生としての期待に答えられない罪だ。
偽預言者にして看守である教師や親たちから、学生なのだから勉強をするように説教をされる。
オーケーわかった。勉強はするさ。
看守の前で、受刑者の僕はそう言った。
だが僕は自習時間に、看守に勘付かれないように受刑者の僕はある場所へと向かう。それが、RPGの世界だ。
僕は理想に至れない自分が消えるために、運命という虚構に埋没するために、RPGをしていた。
RPGの世界という安全基地
モンハン、PSO2の箱庭で、その暗闇のなかで、僕はどうにか安心感を得る。こういうのは安全基地、とでも呼べそうだ。愛着障害の文脈においては安心感を与える保護者のような存在を指す用語なのだけど。
中学生の頃は、モンハンの世界で理不尽を経験しているからこそ、なんだかそこで生きているような気がした。自分で選んだ地獄なら、まあそれでもいいかな、と思えた。別にプレイスキルが高かったわけでもなく、キャリーしてもらったとしてもそれは別に面白くはなかったけれど。
キングダムハーツbbsは特にプレイを続けた。女性キャラであるアクアを操作できることに恐ろしくハマってしまい、そこから絵を描くことをがんばりはじめたくらいだ。そして、彼らの重く苦しい運命とその先にある未来に、思いを馳せたりした。
高専生になると、PSPO2iを経由してPSO2の世界に没頭していた。モンハンよりも簡単に操作できて、絵を描かなくてもキャラクリで自分の好きなようにキャラをつくれて、レアドロを出してすごい武器を持って走り回るのが楽しかった。NGSになったいまもキャラクリをしにいったり、アップデートされたアクションを楽しみにいくほどだ。
こうしてゲームをやるのは、別に何者かになりたいわけでもない。ただ、安全基地たるRPGから、この現実では暗がりで虚無でしかないこの場所で、主人公という職業名が与えられていただけだ。
そして、最強の主人公としての運命を全うする。
すごい力とか、すごい容姿とか、すごい賢さとか。
そういうものに選ばれたら一番になれるという、当たり前すぎてつまらない暗闇のような世界こそを、理想に至れないと思ったときの僕は追い求め続けた。
今になってして思えば、それはまるで動物としての願いだ。
優しい飼い主のワンチャンかネコチャンになって、されるがままに幸せな暮らしをする。当然自分は何もしなくてもごはんばもらえ、代わりにすごい容姿で、多少のあざとい仕草だけで人を好きにさせられる。
正直いまも、なれるのならなってやりたい。だからRPGをするのだろうか。
だがネコチャンになれるはずもない。おまけにこれら僕のやっていたゲームのなかではその暗い願いが果たされることはない。果たされるゲームは、むしろちゃんとやってなかったか覚えていないのかもしれない。
モンハンでは上位にいくのすらままならなかったはずだ。
キングダムハーツではキーブレードに選ばれたとしてもろくなことにならない。待ってるのはソラを待つ存在になることだけ。
PSO2では、僕以上にすごい人たちがたくさんいるのを見て、むしろそれが楽しかった。
僕が望んでいたのは、ネコチャンになることでも主人公になることでもない。ただ、入滅することだけだった。
それと、自習時間においては同じような受刑者と、いまみたいにRPGのことをだらだらと話すのもなんだかんだ楽しかった。
学校や部活のちょっとした休み時間や、PSO2のチャット、ツイッターを通じて、僕らは安全基地のなかで、減衰されたわずかな現実の光を得る。自分が目を背けなくていいくらいの、ほのかに輝く、宝石のような光だ。
まるでそのときのオタクのぼくらは、教徒として聖書の話をしているみたいだった。
だが、受刑者としての義務の時間はすぐ戻ってくる。
現実という監獄と人生のショート
定期テストのたびに手渡される悲惨な成績に、看守の反応はさまざまだ。
教師は呆れる。僕らに苦言は呈するものの、教師たちは僕らが怠惰な生きものであることを知っている。だから言葉少なく終わる。
だが、親たちはまだ慣れちゃいない。
耐えかねた親たちが烈火の如く怒り始める。僕は始めはその怒りに怯えていた気もするが、やがて慣れていく。
理想に辿り着けない僕には、コントロールできることはないからだ。成績不良でスキルという切り札もない僕はただ、嵐が過ぎ去るのを待つしかなかった。
でも僕は、どうすればいいんだろう?
とにかくこの世界から消え去りたいとしか思えなくなっていく。
RPGを続けても、絵を無理やり描いても、没頭する中で現実を忘れることはできる。
しかし、そうして自己を消失できる時間はすぐ終わる。RPGで自分ができることがなくなったり、絵をうまく描けないと苦しむときだ。
こういうのを、フロイトは反復強迫と呼んだらしい。「デザインされたギャンブル依存症」で書いてあった。つまらなくなったものが、やめられなくなってしまう。
自分のこれまでの行動に、ギャンブル依存症の人々の行動を見出していたのだ。
なんだかんだで、RPGや絵といったフィクションを楽しむためには現実という夢と接続し続けねばならないのかもしれない。確定した虚構の運命より、現実にこそ、フィクションを作り出す夢やアイデアが広がっているものだ。
RPGや絵から何も感じられなくなったころ、気づけば飛び降り自殺の寸前だった。
僕は人生をショートカットしすぎて、短絡してしまったのだ。
そこからは恐怖で生きて戻ってきた。僕は結局、人並みでしかない。
そろそろ現実での身の振り方を考えなければならなくなった。
かといって、高専や美大予備校で授業を受け直してどうにかなる気もしない。出来の悪い大人を相手にする気にはなれなかった。
そんな頃、さまざまなRPGの存在を知った。アーマードコアfAやV, MGS4だ。
反復強迫のための死に戻りRPGの道へ
死に戻りゲームとしてのアーマードコアfAやVは、機械化された剣と魔法のRPGだった。
最強に至る。無限の金を傭兵として獲得する。やがて、fAでは人類の敵にいたる。ほんとうにそれだけでありながら、僕はその世界に没頭した。今回の6も、ちょっとやさしい碇ゲンドウに導かれて僕はエヴァではなく、ACに乗って戦うのだろう。
特にMGS4はノベライズから知ったし、その前に虐殺器官やハーモニーを読んでいた。ガンを患い、闘病し続けた伊藤計劃おじさんの語り口は、入滅したい僕の心をつかんでいた。
MGS4はいまにも老衰によって消えそうな主人公、スネークが、それでもなお自らの宿敵であるメタルギアを、それを動かそうとするリキッドを殺すためだけに地獄へ飛び込む。僕はそんな彼を操作しながら、自分が消える感覚を再現し続けているかのようだった。
その前後でオールユーニードイズキルも漫画で読んでいた。死に戻りしながら理想を追い求め、結局破滅的な運命をたどる物語に、なぜと考え続けていた。まるで、「デザインされたギャンブル依存症」を読んだときのように。
僕は反復強迫としてリスカをするように、空想の世界で、RPGで死という運命に向かって死に戻りを繰り返し始めた。
その頃に、僕は死の運命こそを自分にとっての現実として受け止めはじめていた。それでも、どれだけ死んでも僕は蘇り続ける。決まった結末に、運命に向かうために。
なぜなのだろう?
RPGという旅のなかで、僕は意図せずオバマおじさんのいる光の世界に向かって旅を始めたのかもしれない。
RPGの反復強迫の果てにたどり着いた、フィクション世界のつくりなおし
やがて、RPGのパターンを学び始めた僕は、こんなことを考え始めていたようだ。
なぜ、フィクションというフォーマットでこそ、理想と違わぬ現実は作り出せないんだろう?と。
どれもこれも、地獄ばっかりじゃないか。
天国があったって、ほんとはいいはずなのに。
RPGのように世界が無茶苦茶になっていくのなら、それを完全に防ぐことをフィクションでこそ書くことはできるんじゃないのかと、僕は現実のニュースを、プーチンの侵攻やトランプの当選をみながら考え始めていた。
その思考実験は、そのままギルクラへと流れ込んだ。やがてギルクラ改変が始まり、理想に向かって僕の壮大な学び直しが始まった。
MGSVはそんな書き直しのさなかに触っていた。かつてないリアルな空間で、僕はギルクラの集がどんなふうに戦うのかを想像しながら、作品を描き続けた。
自分自身がビッグボスになってしまったとして、そのあと世界をどうつくりなおしてやろうか、そんなことをギルクラを通して本気で考えていた。僕はRPGを通して何かを得ていた。それは「世界の見かた」という、質量の増えない、あたりまえで、でも世界で本気で生きていくのに必要な何かだった。
MGSVの世界を強くてコンテニューして埋没しつつも、いろんな本を図書館でちょっとずつ読み始めた。作品の設定で出そうとして上手く書けないので、Google検索する。それをずっと繰り返した。
やがて世界もいのりも全部最良のやりかたで救い上げるギルクラ改変LOPが完結する頃には、僕は絵も十分描けるようになっただけでなく、高専も容赦なく留年し、高専のカリキュラムで得られるものを当然のように再獲得できた。
別に絵にしろ高専のカリキュラムにしろ、特段スキルレベルが上がったわけでも成績がよくなったりとかしたわけでもない。ただ、「世界の見かた」を得たおかげで、当たり前すぎる最適解にすぐ辿り着くようになっただけだった。
自分の運命とかいう能力上限のようなものは、はじめからなかったと実感できたのだ。
現実で入滅しつづけてスキルを得て作品をつくりつづける日々へ
僕はギルクラLOPを描き終わったあと、毎日がクリスマスのようで、同時に自己が消し飛んだ感覚を味わい続けた。目を開けたまま、RPGをやらないまま、死に至り続ける。入滅し続ける。
世界に無理やり溶け込んでいたのが、すんなりできるようになったのだ。
RPGをやるように、ITシステムの知識も入り込むようになっていたことは、たまたま入った今の会社で気づいた。数奇な運命もあったものだ。
プログラミングも大の苦手で今も得意ではないが、人並みにサーバー系のコードはフレームワークの力を借りて書けるし、DBチューニングも人並みにこなしている。UnixいじりならDockerの力を借りつつ都合がいいものに仕立て上げられる。成績不良RPGプレイヤーでも案外なんとかなる。
攻略本を読むように海外サイトのドキュメントからオライリーの本まで読む。それだけならまったく簡単になっていたのだ。
やがてそれらIT系スキルだと飽きてきて、専門領域を半沢直樹系悪役への対抗のために金融や法学へと拡張し、美術解剖学で絵を楽に描く方法を見出しつつ、よくシステム運用の比喩で出がちな緊急医療についても好きなところだけ読み漁り、戦闘機にさらに意味を与えるために通信用衛星を戦闘機から飛ばすような実際のプロジェクトまで拾うようになっていった。詳しくは以下の記事で手法も含めて書いている。
果ては教えることが驚くほど増えてしまい、これらの記事を書かないといけないくらい悩む状態になってしまった。
これらの過程でいくつか小説を出してきた。なんならギルクラをさらに書き直したりもした。作品を書いてる時、なんだかんだ一番学習が効率化されるものだ。
RPGとぼく
RPGを通していろんなことをする運命になってしまったからRPGができていない、というわけでもない。
僕はモンハンライズサンブレイクもやってるし、ブルーアーカイブもやってるし、原神もやってる。
確かにやる目的は、みんなのことをもっと知りたいから、という方向性が入ってしまっているけれど、入滅したいから、という側面は決して変わっていない。
ただ、昔のような入滅はかなりがんばらないとできない。
過去に味わった驚きを、もう一度同じ展開で得ることは難しい。
だからこそ、いま驚いている人たちの感想を見たり聞いたりすることに集中する。TwitterやYoutubeが役にたつ。みんなの反応から、かつての自分を思い出すのだ。
今回の「デザインされたギャンブル依存症」もまた、そうした過去を思い返すきっかけになった。こちらは暗い話ではあったけれど、でも、「世界の見かた」は得られるという側面を、この本が完全に否定することもまた、ないだろう。
「楽しくてスリル満点なRPGを通して、人は世界をいままでと違った目でみること」はできないのだろうか?
たぶん、できる。
RPGの運命に殉じ続ける限りは。
そうして学ぶことを、あきらめない限りは。