「エモい」が社会を破壊する
こんにちは、ぼんくら大学生です。
8月もそろそろ終わりが近づいている。華の大学生になって初めての夏休み。あっという間に過ぎていった。花火、ドライブなどの夏休みらしいことは全くと言っていいほどしていない。出来るのならサザンを流しながら海岸線を走りたかった。まあ免許を取る予定もないが。
本題に移ろう。突然だが、皆さんは「エモい」という言葉を知っているだろうか。この言葉が使われだしたのは二年前くらいだと記憶している。テレビなどのメディアでも多く取り上げられているので、知らない人は時代遅れの人間だと自覚するべきだ。
「エモい」の類義語で「チルい」という言葉も巷に溢れている。正直、現役大学生の僕でも自信を持って「エモい」と「チルい」の区別は出来ない。おそらく、同年代の多くの人も区別は出来ないだろう。それほどに曖昧であり、カオスな言葉であるのだ。
僕自身、「エモい」や「チルい」といった類の言葉は日常で使わないが、周りの大学生がこの言葉を使うことに対しては何も思わない。それ自体に文句を言う気も毛頭ない。
しかし、「エモい」や「チルい」などの言葉に関して、どうしても許せないことがある。それは、
若手女優に往年の名曲を歌わせるCMだ。
近年、この類のCMを何本見ただろうか。どのCMもほとんど同じ。
・夕暮れ時に撮影
・場所は住宅街か片側一車線の道路(海が見えるとなおよし)
・若手女優がトボトボ歩く
・始めはテンポを落としたアカペラで曲がスタート
・途中からオルゴールが鳴り出す
・最後に空を見上げて終了
これに従えば、読者の皆さんも晴れて監督デビューだ。コツは売れすぎていない、ブレイク間際の女優をキャスティングすることだ。
ここまでオリジナリティのないCMを作って宣伝になっているのか疑問が残るが、それでも作られ続けるということはある程度需要があるということだと思う。
僕はこのCMの類を「エモい」と括ってしまうことに納得がいっていない。企業の手のひらの上でまんまの載せられ、世界に誇れる、繊細な日本語の美的表現を根底から覆してしまうように感じられる。それが「エモい」のあるべき姿なのだろうか?僕はその姿勢に違和感を感じてしまうし、言ってしまえば「エモい」という言葉に対して失礼とまで思ってしまう。
このCMが評価されてしまうことで、「エモい」という状況を作り出すことがいかに簡単なのかを証明している。それほどに我々の生活の周りに手軽なエモが溢れているのだ。
いろんなことを思うままに書いたが、僕が往年の名曲を若手女優に歌わせるCMが苦手なことを覚えてもらってこの記事を締めるとする。