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学生の「学び」の意義ってなんだろう~保健の授業から考えてみた~

学生の「学び」の意義ってなんだろう

高校生を教えている立場から日々そんなことを感じる瞬間が多い。

この「学びの意義」というのは1つの答えが用意されているわけではない。

しかし、そこが難しく、また高校生という年齢だからこそ、その答えを導きだすのに時間がかかる。

例えば

  • 勉強しないと良い大学にいけない

  • 勉強しないと将来生きていけない

  • いま勉強しておかないと後悔する

なんていうのは「どこかの誰かが言い始めた」ことで、この世の真理ではないし、大学に進学することを考えていない人からすると、何を言ってるのだろう・・・という状態になると思う。

このような状態を「一般化のワナ」と定義している哲学者もいる中で(興味があれば調べてみてね)、要はこれが正解ではないし、この状態だといずれ息詰まる状態が生まれる。(例えば、大学に合格したとか、将来っていつまでなんだ?一体なんのためにここまで努力しているんだ?など)

もちろん、このような目標や考え方で「学ぶ」意義を感じている生徒もいると思うし、それは間違えではないといことを伝えたい。


じゃあ結局のところ「学ぶ」意義ってなんだ?


これは私が思うに

「自分の経験から作られる唯一の解」それがその人にとっての「学ぶ」意義

であると考える。

そう、誰もわからない。誰も知らない。誰も定義してくれない。

自分で見つけ、作られる。それが「学ぶ」意義なんだろう。

海外で〇〇したい。海外の人と働きたい。
こう願う人は、それを成し遂げるために自ら「外国語」を学ぶであろうし。

エンジニアやプログラマーになりたい。活躍したいと願う人は、それを成し遂げるために考え、学ぶ。

プロの選手になりたい。と願う人は誰よりも練習に取り組んでいるのではないだろうか。

そして学生生活の日々も同様に。

自分から主体的に(自然に)物事に取り組んでいる時の自分を思い返してみると、それこそが学びの姿と思う。

内発的なものなのか・外発的なものなのか

良い大学へ入るために「学ぶ」

自分の夢には必要な知識・技能だから「学ぶ」

どちらも「学ぶ」ことへのスイッチは本質的には間違っていないと思うけど、前者のほうが「ために」学んでいるだけで感覚的には「外発的動機づけ」に近い気がする。

外発的動機づけとは

外発的動機付けは行動の要因が評価・賞罰・強制などの人為的な刺激による動機付けのことです。

世間的な評価を行動要因としている感じかな。

一方で後者のほうだと、内発的動機付けといって

内発的動機付けとは内面に沸き起こった興味・関心や意欲に動機づけられている状態のこと。動機づけの要因は金銭や食べ物、名誉など、外から与えられる外的報酬に基づかないものを指す。

このように自分から起こる興味や関心によって、「学び」へのスイッチが生まれている。

難しいことだけど、ぜひ高校生のうちに「内発的な動機付け」で学ぶことの楽しさを見つけ、感じてほしいと思います。

保健の授業を通して考えたこと

今回なぜこんなことをnoteにまとめてみようと思ったのかというと「保健体育科」の先生として「保健」の授業の向き合い方を考えてみたくなったからだ。

受験にも関係なく、あながち敬遠されがちな科目「保健」
しかし、学んでみると興味深いコンテンツや自分の一生に関わるような知識も沢山ある「保健」

そんな「保健」を面白く、そして興味深く、またどうしたらスイッチを入れられるかということで毎回頭を悩ましながら制作している。

「生徒」に面白く、興味深く、主体的な学びを生ませる。
そんな授業を作るために「保健」を学ぶ。

まさに私にとっての「学ぶ」意義である。

でも、これは先生(私)にとっての「学ぶ」意義で、スイッチであり、これを多くの人に共感してもらうなんてことはお門違いである。

では保健の授業が(いや、日々の授業もか) 日々の学校生活で、
自分の中で「学ぶ」意義を見つけられない人はぜひこんな刺激を感じてほしい。


私が提案する「目の前のことを取り組める人」であるか?という問い

学校に通えること。とても幸せなことである。
保護者の方の日々の支えで自分があり、今があると思う。

そして、あなたたちは学校に登校していたとしよう。
その行動を起こしたのはなんだろうか、「学ぶ」ため「友達」に会うため。
なんでも良い。それが少なくとも「登校している」という自分自身の意義になっている。

私が提案した「目の前のこと」
目の前のこととはどんなものだろうか。

自分が直面している「目の前のこと」というのは実に多岐にある。
細分化すればするほどに。

学校を例にすると

学校に
→行く
→行かない

授業を
→受ける
→受けない

誰かと
→話す
→話さない

部活を
→する
→しない

どれを選択してもあなたの人生はあなただけのもので、その選択に間違いはないはず。

自分で選択したもの(答え)は判断責任が伴う。

選択したものをしっかりと取り組める人になることが今後のあなたの成長や未来に私は繋がると私はそう信じている。

高校生の年代で将来の為に〇〇したい。
〇〇という明確な夢があるから〇〇を学んでいるんだ。

などを考えるのは非常に難しいと思う。

それは高校生活を過ごしていく中で自然と自分自身で見つかってくると思う。

だからこそ「授業」を受けるという選択をした場合

目の前の「保健」(それ以外の教科も)に取り組める人になれば、
「目の前のことに取り組める人に」成長を遂げられるのではないか。

自分は自分がすべき目の前のことを取り組める人になるために、「学ぶ」

「判断」と「責任」を「学ぶ」

そんな「学ぶ」意義があっても私は良いと思う。


しかし、これはあくまで私が考えた「意義」への一般化であって、
それをしなさい。しなければ。
ということではない事を最後に記しておきたい。

おわりに

哲学みたいな感じになってしまったが、高校生活ってなにも考えずに進んで行くとあっという間に過ぎていく、そして3年間で自分が何をしたのかも、なにをしたいのかも、気がついたら終わっている。

自分で楽しいことを選択することもできるし、それが「学び」ではない選択になる場合もあるけれど、やっぱり学校という同じ年代の人々が集い「学ぶ」ことは、とっても楽しいことだし、それが学校の魅力なのだと思う。

いま何かモチベーションや自分のやりたいことへの熱量がどことなく減ってきた貴方に少しでも、刺激を与えられたら嬉しいなと思う。


なぜ、学校で勉強をするのか。

なぜ、学校に通うのか。


「学ぶ」ってどうゆうことなのか。


いま貴方に問いたいと思う。

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飯塚淳平
noteを読んでいただきありがとうございます。「こんなことしてみたい!」「このようなこと一緒にしませんか?」などご連絡お待ちしています。サポートは「子ども達」「ラグビー」の未来の為に活かします。「ラグビー」を通して「大きな夢」を持とう。