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クラシック音楽の話(30)
オタクがクラシック音楽を殺す?
日本のクラシックは「オタク」に殺されつつある――と警鐘を鳴らしている指揮者の大友直人さん。今の日本でクラシック音楽が衰退の一途を辿っている要因の一つとして、大友さんは、評論家やジャーナリストの質の変化を挙げています。本来、クラシック音楽を一般市民に広げていく使命を持つはずの彼らが、そうした役目を果たせず、極端な「オタク」になってきている、って。
つまり、私たち一般の愛好家が、幅広く適切な情報や評論を知りたいと思っても、評論サイドの個人的嗜好を一方的に知らされるばかり。その結果、日本のクラシック音楽ファンの間に、極端なオタク的感性をもつ人が増えてしまったというのです。彼らは自分の好き嫌いがはっきりしていて、嫌いなものは一切認めない。実に排他的。そんなふうだから、クラシック音楽ファンは増えないし、新しくファンになろうにもファンそのものを好きになれない。まさにドツボ状態。
しかし、これって、本当に事実なんでしょうか。確かに、私の周りにいる数少ないクラシック音楽ファンの中にはオタクのような奴もいますが、そうでない人もいますよ。私だってゆるーいファンなのが幸いしてか、決してオタクではないつもりです。それに、そもそも評論家やジャーナリストって、これからクラシック音楽を始めようという人に対して、そんなに大きな影響力を持っているのでしょうか。
私がクラシック音楽を聴き始めたのは、自ら思い立ってのことであり、何より素敵な曲に巡り会えたからであって、誰かの話に影響されたわけではないです。ただ、その後は評論家やジャーナリストの方々の話も大いに参考にし、勉強もしてきましたが、だからといって決して鵜呑みにするのではなく、あくまで最後は自分の感性で判断しているつもりです。音楽鑑賞って、皆さんもそんなもんでしょう? クラシック音楽の鑑賞方法だけが特別なわけじゃない。
それから、大友さんは、かつては評論家の質が高かったと言っていますが、今だって素晴らしい評論家の方たちは少なからずいらっしゃると思いますけどね。名前は挙げませんけど、初心者だった私も、本を買ったりしてこれまで色んな知識や情報を得てきました。本当にありがたい存在です。ただ、いい評論家とそうでない評論家を見分けるのが大事で、いい評論家の言葉は、例外なく平易です。反対に分かりづらい話ばかりする人は、すなわち「オタク」なんだろうと思います。そんな人にばかり近づいていたら、確かにクラシック音楽が嫌いになってしまうのかも。
それから、指揮者の広岡淳一さんがインタビューの中で言っていましたが、クラシック音楽の世界には、わざと難しい言葉を使う人が多い、あるいは人と比べて自分の方が知的優位に立っていることを示したい、「衒学(げんがく)」資質というそうですが、そんなタイプの人が多いのだといいます。でも、難しい言葉を簡単に言うことができない人って、実は理解していないし、知識を振りかざすような人は要するに二流だというんです。一流は決してそんなことしないし、しゃべったとしても、いちばん分かりやすい言葉で言う。けだし、同感!
とまれ、日本のクラシック音楽が死にかけているという話は本当でしょう。その原因は、オタクや二流の衒学趣味の人たちの存在もあるかもしれませんが、もっと他にもある気がします。あくまで素人考えですが、たとえば、今流行のデジタルオーディオプレーヤーとヘッドホンによる、若者を中心とした音楽鑑賞シーン。あれって、クラシック音楽を聴く環境としては全くもって不向きだと思うんですね。極端にいえばメロディーのみ感じ取れるのみで、繊細なニュアンスは殆ど伝わらず、全然いいように聴こえない。要するにつまらない。だからファンが増えないということはないでしょうか。違うかな。
いずれにしましても、この嘆かわしい状況を何とか打破してほしく思います。かつての『のだめカンタービレ』みたいな面白い映画がヒットしてくれないかしらん。一介の私ごときにできることは何もありませんが、ただ、浅薄ながらもここでこうした記事を披瀝している以上、せめて好ましいクラシック音楽ファンだと認めていただけるよう精進する所存です。がんばれー、死ぬなーっ、クラシック音楽!