クラシック音楽の話(40)
マーラーの《交響曲第9番》
傑作中の傑作とされる、マーラーの《交響曲第9番》。とても哲学的でメッセージ性の強い作品であり、一種独特の世界観が繰り広げられています。曲の全体のテーマは「人生との別れ」すなわち「死」そのものとされます。しかも英雄とか誰か特別の人の「死」というわけではなく、ごく普通のありふれた人たちの「死」。
言い換えれば、英雄も天才も、私たちのような凡百の人間も死ぬときはみな同じ。そうした「普通の死」を描いている。だから、特段に大げさでも劇的というものでもないので、私たちも素直な気持ちになって、この「死」に対する怖れと「生」への憧憬に満ちた曲に心が揺さぶられる、そして、自身の人生に関しての色々な思いをこの曲に対して寄せることができるんだと思います。
マーラーと同じ時代に生きたシェーンベルクは、「知性的冷たさと感覚的温かさを、同時に理解できる人だけが感じとることのできる客観的な美が表現された作品であり、《第9番》は、ひとつの極限。これを書いてしまった人は、あまりにも来世に近すぎるところにいた」と、言葉を尽くしての大絶賛。
また、同じく同時代のベルクは「地球と自然への愛による最高の表現」だといい、マーラーの直接の弟子だったクレンペラーは「マーラー自身が残した、最後で、かつ最高の作品」、かのカラヤンも「これは永遠という別の世界からやって来た作品」などと、数多くの称賛の言葉が残されています。不肖私でさえも、よくもこんな境地を音楽に落とし込むことができたなと、ひたすらおののくばかりです。つくづく、音楽って、スゴイ!
元オーボエ奏者の宮本文昭さんは、この曲について「かなりとっつきにくいので、最初から誰にでもお薦めするわけにはいきません」としながらも、「クラシックの上級者になったら、ぜひとも聴いてください!」って。僭越ながら私からも、これからクラシック音楽を始められる方に、とにかくこの曲に行き着くまでがんばってください!と申し上げたいです。ちなみに愛聴盤は、ヤンソンス指揮、バイエルン放送交響楽団による2016年10月のライブ録音です。
マーラーの言葉
私は三重の意味で無国籍者だった。オーストリアではボヘミア生まれとして、ドイツではオーストリア人として、世界ではユダヤ人として。どこでも歓迎されたことはなかった。
私の死後50年経ってから、私の交響曲を初演できればよいのに。今からライン河のほとりを散歩してくる。この河だけが、初演のあとも私を怪物呼ばわりすることもなく悠然とわが道を進んでゆくただ一人のケルンの男だ。
伝統とは炎を絶やさないことであり、灰を崇拝することではない。
交響 曲を書くことは、私にとって、世界を組み立てることなのだ。
やがて私の時代が来る。
交響曲は世界のようでなければならない。それはあらゆるものを包含しなくてはならない。
我々現代人は、我々の大小の思想を表現するためには大きな手段を必要とする。第一に我々は誤解されるのを避けるために、虹の彩色をさまざまのパレットの上に分ける必要がある。第二に我々の眼はますます多くの色を見、ますます繊細な変化を見ることを習得する。第三に我々の余りに巨大な音楽会場や歌劇場において多くの人々から理解してもらうために、大きな音を出さねばならない。
バッハのポリフォニーの奇蹟はまったく他に例のないものです。単にその時代でというのではなく、あらゆる時代を通じてです。
とても口では言い表せないほど、バッハから次々と、しかも回を増すごとに、より多く学んでいます(もちろん子供のころからバッハに教わっています)。というのも、自分自身のもって生まれた音楽の作り方がバッハ的なのです。もっとこの最高のお手本に没頭できる時間さえあったなら。
不思議だ。音楽を聴いていると――指揮をしているときでさえ――疑問に思っていることすべてに対して確たる答えが聞こえてくる。そうするとまったくすっきりした確かな気持ちになる。あるいはさらに、疑問など元々ないのだと、はっきり実感する。
リヒャルト・ワーグナーの肺から吹き起こる、あのものすごい突風をまともに食らったら、ブラームスなどひとたまりもないだろう。
私はいつも自分を高い所に置いておきたい。いかなるものによっても煩わされたり、引きずりおろされたりしたくない。そういう高さに常にいるのは至難のことだ。
世界の人々の意見を、私たちを導いてくれるお星さまのように考えることではない。人生の中で、失敗にめげることもなく、拍手喝さいに浮かれることもなく、自分の道を歩み、絶え間なく努力することだよ。
(妻のアルマへの言葉)君は若くて綺麗だから、ぼくが死んだら誰とでも一緒になれるね。誰がいいかな? 〇〇は退屈な男だし△△は才人だが変わりばえがしなさすぎる。やっぱりぼくが長生きしたほうがいいか。