クラシック音楽の話(18)
女流の魅力
「女流演奏家」を愛してやまなかった、故・宇野功芳先生。その理由は「男性の場合は頭脳ばかり使って演奏するから、皆同じような演奏になり、つまらない」というものでした。決して女性が頭脳を使っていないはずはないんですが、それより何より、その人の「感性」が直截的に音色や響きに表れる。このあたりは、やっぱり女流ならではの魅力だと感じますね。
なぜ「女流」がそうなのかと考えるとき、私には思い起こす事例が2つあります。たとえばビジネス現場で、実は私、元銀行員で企業融資を担当していたことがありまして、ある会社を初めて訪問し、その会社の「社風」を見分けようとするときに、まず女性社員の表情を見るようにしていました。彼女らが明るく溌溂にふるまっていれば、その会社も、明るく風通しのよい会社で、反対に暗くて元気がなければ、どこかに問題のある会社です。これはけっこう当を得た判別方法でして、女性ならではの発露があり、男性社員だけを見ていたのでは、なかなか分かりにくい部分なのです。のちに監査の立場になって行内の各支店・部署を見回る際も、トップのマネジメント如何を判別するために同様の見方をしていました。
それからもう1つ、全然違う話ですが、だいぶん前に、日本の女子バレーチームの監督さんが、男子選手と女子選手の違いについて語っていたことがあります。男女どちらのチームも、毎日のように猛練習を重ね、終わるとコートの床に倒れ込んで動くこともできなくなるそうです。これは男子も女子も同じで、疲れ果てて完全にグロッキー状態。しかし、それでも女子選手たちは、「あ、窓を閉めなきゃ」とか言って、起き上がって体育館の窓を閉めに行くんだそうです。
その姿を初めて目にした時の監督さんは、「何だ、まだ力が余っているじゃないか!」と、えらく立腹したそうです。しかし、やがて、決してそういうわけではないのだと悟ったといいます。男子選手では絶対にあり得ないことだけど、どれほどヘトヘトになっても、どれほど苛酷な状態にあっても、そんな行動をとるのが女性なんだって。
いかがでしょう。いずれも音楽とは全く関係のない、少々飛躍した話で、これらのことが「女流演奏家の魅力」の話とどう関係するのかといわれたら、何とも言えません。しかし、何気ないのだけど、「ああ、こういうのが女性なんだ!」と、男性にはない、心や感性の自然な発露が察せられる場面であると思うのです。そして、そうした部分に触れ合うことが、男にとっては、時に驚きであり、時に刺激的であるわけです。なかなかうまく言えませんが、女流の演奏に耳を傾けたときも、しばしばそれと似た感覚が得られるような気がします。
ですから、私が持っている独奏曲や協奏曲のディスクも、ピアノにしろヴァイオリンにしろ、圧倒的に女流のものが多いです。男性演奏家とは、とにかく何かが違う! まーもちろん、私は男ですので、単純に「女性が好き」というスケベ心もあるわけですが・・・。
感じたい、たくさんの「美しい」
音楽評論家の許光俊さんが、こんなことをおっしゃっていました。「音楽抜きの人生はあり得ないと考えている人も多いだろうが、逆に、人生抜きの音楽もあり得ない。どんな音楽であれ、人生とまったく無縁に生まれるものではないし、聴かれるものでもない」
「それなのに、評論家の多くはそのあたりには口をつぐみ、『自分はこんな人間』という部分を棚上げしたまま他人の音楽を語っている」って。まるで拾ってきたきれいな石を褒めるが如くに、って。たとえば、「極貧だからこそわかる音楽、贅沢三昧していないとわからない音楽、はたまた童貞、処女でなければ感動できない音楽、頽廃の果てに魅力を感じる音楽だってあるはずなのに」。
確かにですね、不肖私も、これまで生きてきて、いろんな過程や環境のなかで音楽への嗜好はさまざまに移り変わってきたと感じます。さらに同じ曲であっても、若い頃と今では感じ方も異なってくる。そして、許さんがおっしゃるには、「本来、美について語るということは、突き詰めるほどに、『それを美しいと感じる自分』を語ることと切り離せないはず。なぜなら美は決して物理的なものなどではなく、この上なく主観的なものなのだから」と。
大いになるほどです。まーでも、評論家さんの立場からすれば、広くあまねく理解を求めようとするため、ある程度は自我を抑えた論になってしまうのは仕方のないこと。むしろ個人の美意識?を押しつけられることの方が、好ましくないようにも感じます。それより何より、「それを美しいと感じる自分」を高め、少しでも多く、いろんなものを自らの力で「美しく」感じられるようになりたく思う所存です。だって、そのほうが、人生、絶対にお得ですから。そのためには、できるだけ多くの経験をして、色んな価値観に触れる必要があるんでしょうね。今さらですが・・・。