特攻隊の生き残りだったじいちゃんが許せなかったものと繋がれた命を思う年末
じいちゃんは貧しい家で育った。
貧しいうえに男女3人ずつの6人兄弟だから、さらに貧しかった。
頭が良くて神童と言われたらしい。
昔、見せてくれた通信簿は甲乙丙の「甲」ばかりだった。今で言えばすべてが最高点だ。
だから、学校の先生の勧めもあったし、進学したかったのだけれど、家族の為にあきらめて働きに出た。
そのころ戦争は始まっていた。
働き出して何年かして、じいちゃんはある時大きな決心をする。
志願して入隊するーと。
いつだったか、「何で志願なんかしたの?」と、簡単に聞いた私に、じいちゃんは何も言わなかった。
家族を養うために進学さえも諦めたのに、どうして志願までして戦争に行こうと思ったのだろう。
そんな大きく重く苦しく厳しい決心には、きっと、大きく重く苦しく厳しい何かがあったに違いない。
海軍に入隊後、訓練のため高野山にいた。そこに集められたみんなが、やがて特攻隊として出撃する人たちだった。上官は威張っていていつも殴られたから、訓練のみならず辛い日々だったらしい。
そんな中、じいちゃんは父親の訃報を聞いた。自分が志願したせいで苦労が増えたからだと自分を責め、初めて泣いたと言った。
やがて、ある場所に配置された。
だけど、出撃を待っている間に、終戦になった。
特攻隊として待機していたけれど、幸いにも、本当に幸いにも、飛び立つことなく戦争が終わったのだった。
いつ飛び立ってもいいように遺書も書いていた。帰還してからもずっとその遺書を持っていた。
遺書は、両親への感謝の言葉だった。
辞世の句もあった。
志願するときも、遺書を書いたときも、ズシリと大きくて苦しくて重くて厳しい何かが胸の中にあったはずだ。志願したとは言っても、好き好んだ訳じゃないはず。喜び勇んだ訳じゃないはず。戦争をすることに、死んでいくことに、どんなに深く重い感情があることか。
たとえ、どんなに深く話を聞いてたとしても、映像や資料を十分見たとしても、実際に経験したことをそのまま理解し感じることは誰にもできない。
その辛さ苦しさは計り知れない。
じいちゃんは無事に帰還後、会社勤めをし、定年過ぎまで働いた。
ずっと家族のために働き詰めだった。青春も無かったから、それを取り戻すかのように、やりたいことを始めた。俳句、俳画、短歌、陶芸、表装、書道、絵画、ガーデニング、お遍路・・・
近くにある大学で一般市民向けの公開講座が始まると、文学や古文、漢文が好きだったじいちゃんは、名の知れた国文学の先生が講義する短歌の授業に通った。家族のために進学を諦めたこともあって、学校へいくということをとても楽しみにして通っていた。
だけど、ある日、とても怒って帰って来た。
その日の講座は、特攻隊の人々が飛び立つ前に残した句についての内容だったらしい。
その名の知れた国文学者は、ある特攻隊員の辞世の句を解釈したあとに、言ったのだそう。
「あまりうまくない。〇〇(有名な歌人)の歌の方が良く表現されている」
きっと、じいちゃんは、悔しかったのだろう。悲しかったのだろう。
「特攻隊の辞世の句が、有名な歌人の歌と比べて下手だとか言って。
有名な歌人の歌が上手で当たり前じゃないか!比べるものじゃない!」
その先生は軽く言ったのかもしれない。
でも、じいちゃんは、どっちにしても、許せなかったんだ。
それ以来、講座を辞めてしまった。
じいちゃんが経験した計り知れない思い。
どうしても、どうしても、許せなかったんだよね。
じいちゃんが特攻隊として出撃していたら、今、ここにじいちゃんから繋がってきた命は、この世界にいなかった。
私が生まれることもなく、私が世界を旅することもなく、今noteを書いてもいなかった。
戦争を生き延びたじいちゃんは、静かに天寿を全うした。
もっともっとたくさん、話を聞いておけば良かったな。
じいちゃんが懐かしい。
ずっとずっと平和な世界であってほしい。
生きとし生けるものが幸せだと感じられる毎日であってほしい。
もうすぐ新しい年が来る。
またひとつ、歳を重ねていく。
みなさん、良いお年をお迎えください!
平和で誰もが幸せに暮らせる世界を!