心にうつりゆくよしなしごと:書くということ
noteを始めた当初、「週1で更新する」という目標があって、その一方で「『書かなきゃ』ではなく『書きたい』という気持ちを大事にしたい」とも思っていた。
それはこのnoteがあくまでも趣味だからと理由に他ならないのだけど、それでもここ最近はなかなか更新できていなくて、それが心に引っかかっていた。
思うに、今まではどちらかというと、「書きたい」を待っていたのだと思う。だから、「書きたい」が来ないと書けなかった、もとい書かなかったのである。
じゃあ、何かテーマを見つけて、それについて考えてみれば何か書けるんじゃないか?という至極真っ当なことに、さっきドライヤーで髪を乾かしながら気が付いた。というわけで、今日は「書くということ」について、早速書いてみようと思う。
—————
さっきの「書いてみようと思う」のくだりで、本当は「早速筆をとった」と書こうと思った。でも、実際はスマホでこの文章を打ち込んでいる。
私個人のイメージをお話しすると、「書く=えんぴつ、ペン」である。つまり「筆記具を持って、自分の手を動かして、紙に文字を記す」ことが、「書く」だと思う。そんなわけで早速ネット辞書で「書く」の意味を調べてみたら、こんな感じだった。
①文字や符号を記す。「持ち物に名前をー・く」
②文章を作る、著す。「本をー・く」
ふむふむ。みたところ、筆記具の有無の指定はなさそう。だったら、今しているこの行為も、「書く」になるんだろうか。っていうか、書くって一体なんだろう?
—————
大学生の頃、パソコンのメモ機能を使ってノートを取る人が結構いたけれど、私はもっぱら紙派だった。「キーボードを叩く姿がなんかかっこいい」という理由で何度かトライしてみたこともあるけれど、パソコンでノートを取るなんて器用なことはできなかった。パソコンでノートを取るのに挫折した最大の理由は、1行ごとに、しかも文字しか書けないことにある。
私は、先生がぽろっと言ったこととか、その場で思いついたことを書き込むことが多い。そういう時は、棒人間風のオリジナルキャラクターを書くのが高校生の時からの習慣で、吹き出しをつけて、まるでそのキャラクターが大事なことを教えてくれてるような感じで書いておく。ただのイラストを添えておくことも多い。イラストとセットだと、なんとなく記憶に残りやすいのだ。それに「書いた」という実感があるから、「あ、確かあの辺に書いた気がするな」と、後からでもその場所を目指して戻ってこれる。パソコンでノートを取った時は、これができなくて困った。
もちろんパソコン派を非難しようというのではなくて、ただ単に使いこなせなかったという話だと思う。ただ、この「書いたという実感」が譲れなかった。物理的に「手を動かした」という事実が記憶に刻まれているだけではなくて、「自分でレイアウトを工夫したり、イラストを加えたりして頭を使って書いた」という実感が頭に残るからなんだと思う。
—————
ところで、「書く」という行為の産物として生まれた「文字」には、書き留めた情報以外にも、色んなものが詰まっていると思う。それが自分の文字だと、パソコンの画一的なフォントよりももっと、心の奥底に響く気がする。
眠い目を必死にこじ開けて出席した昼休み直後の3限の授業とか、いつも難しい話ばかりしているけど時々プライベートのことを話してくれる先生の話のこととか、このノートを取った時、当時好きだった子が隣に座っていたとか。文字だけじゃなくてそれを書いた自分を取り巻く空気が、まるっと蘇る気がする。
私の中の「書く」において真っ先に鉛筆やペンなどの筆記具が思い浮かぶのは、手を動かすという実感や、その産物としての文字によって、
大事にしたい思い出や記憶を留めておけるツールだから、なのかもしれない。
—————
「書く」にまつわるnoteを書き、自分の書いた文章を読み返してみると、学生の頃のことが懐かしく思い出された。今日はペンなんて握ってないし、こうしてぽちぽち打ち込んでいるだけなのに、である。
今までは「何で書くか」が大事だと思っていたけれど、もしかしたら、「書くということ」は「何をどう書くか」が大事なのかもしれない。
(タイトル写真は留学中に使っていたノートです。ちなみにアラビア語の授業で1番最初に習った動詞は「كتب(書く)」でした。)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?