憧れの英語の先生
先生は泣き虫だった。
道徳の授業で絵本を読み聞かせれば泣き、長縄の自主練に誘わなければ拗ねて泣いた。私が生徒会役員選挙で落選した時は一緒に泣いた。式典ではもちろん泣いた。離任式でも一緒に泣いた。
これは私が中学でお世話になった、英語の先生の話。
彼女はいわゆる熱血教師というやつで、情に厚く、問題児を可愛がり手懐けていくような人だった。英語の発音はとても流暢で、生徒たちから染めたの?と言われるようなきれいな茶髪の持ち主だった。そのカラーは白髪染めだったらしいが。
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中学1年、3年と担任で、委員会の仕事でもお世話になった。お世話した部分もある。そういえば彼女は生徒を名字+さん、で呼んでいなかった気がする。
呼び捨てのときもあれば、生徒間のあだ名を使うときもあった。同じ姓名が多かったこともあるのかもしれない。私は呼び捨てか〇〇ちゃんと呼ばれていた。
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時間があれば周りをうろつき、話をし、単元テストのあとは公開採点をしてもらうほど追っかけをしていたのは私だ。お世話されに行くようなものだ。
彼女は、しつこいという顔をせずしっかり向き合ってくれた。ありがたいものだ。その情の厚さは彼女からうつったらしい。
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そんな彼女は、私のことを「ハンナ・モンタナ」に似ていると言っていた。ハイスクール・ミュージカル?の主人公らしい。写真まで渡された。
目の大きさは似ているが、キャラクターはどうだったんだろう。結局まだ見ていない。
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大好きだったが、今でも許せないのは、私と私の友達を一緒のクラスにしなかったことを聞かされたことだ。言わなければ運の悪さを恨むだけで済んだのに。
私はここでクラス編成の裏側を知った。くじ引きじゃなかった。
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ときに、私は都合のいい子でもあった。
それなりに同学年からの信頼を集め、発言力があり、頼まれごとは難なくこなすような生徒だった。先生からしてみればとても都合がよかっただろう。今思い返すとこの頃から尽くし癖があったのだな。誰に仕込まれたのだろうか。
☆
断片的な記憶はさておき、本題はここからである。
忘れもしない中3の冬、だったか秋だったか年明けだったか定かではないが、寒かった日。
彼女は午前で早退した。その次の日は休んだ。その次の日も。
3,4日経ってから復帰したが、どうも様子がおかしい。暑苦しいほど絡んでこないし、いつもの出身校自慢もない。授業も自習になった。
明らかに落ち込んでいる。
何があったのかは知らない。でもその様子は叔父を亡くした時の私に似ていた。あくまで憶測だ。何かを失ったのだろう。復帰した次の日も来なかった記憶がある。
その当時の私は何を考えたのか、職員室の彼女の机の上に手紙を置いた。
中には、好きな格言が書かれた紙を入れ、大丈夫みたいなことを書いた。「日常の全てに感謝しよう」的な格言はもともとA4用紙に印刷されており、どうにかサイズを小さくしたくてFAXで4,5回サイズ調整をした。時代を感じる。
次の日、いや次の次の日かもしれない。返事が来た。
生きていることこそ素晴らしく、このクラスがとても賑やかでうるさい、その日常が尊い。最後には頼っちゃうよ〜と書かれていたことを思い出す。
そこからは徐々にいつものペースを取り戻し、素敵な笑顔で授業をしていた。
休み時間に、小さな声でありがとねと言われた。そんなこと言わないでくれよ、尽くし癖の自己満ムーブだったのに。
年が明けて3月。卒業式。
私は志望校に合格し、式典内で合唱の指揮をすることが決まっていた。
その年は春までインフルエンザが流行していて、5人ほど卒業式に出られなかった。
前々日、発熱。
そしてインフル。私もその一人だった。せっかく指揮のオーディション受かったのにな。
出席停止が解けたのは卒業式の5日後。卒業証書をもらいに中学へ行った。
本来ならば校長から受け取るものだったが、その日は不在。教頭も会議中。
ということで、私は大好きなあの先生から受け取ることができた。
周りで学年部の先生方が拍手をしてくれたことは忘れもしない。
そんな先生に出会ったから、私は英語の先生を目指すようになった。
まだまだ英語力は未熟だし、人に教えを説くなんて滅相もないと思っている。しかも教員の仕事に耐えられる精神があるかと問われたらない、と答えそうなほど抑うつ性が低い。
同じ職に就けたら万々歳だが、就けなかったとしても彼女のような、情に厚く誰かのために奔走し、誰かのために泣ける人になりたい。
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