個性の強調に伴う無個性の現出
個性の把握や創造は、自己の輪郭を決定する上で強力な効果を持つし、自己認証による自己の恒常性の保持の上でも重要な役割を果たす。しかるに、それが行き過ぎたのが現代だろう。現代は、個性の把握と創造を過剰に尊重するあまり、その近道としてのメソッドが次々と提示され、パターン化してしまった。我々が個性を強調する場合は、だいたいメソッドが固定化している(もしくは前例と類型化する)ため、却って、類型化された無個性さが現出するに至っている。結局、個性を強調するというメソッドだけが先走りし、内実の個性が殻にこもり、その出力がメソッドに反してどれも全く無個性になるのが現代の潮流なのだろうか。そもそも、個性の押し売りが資本主義社会における個人の成功の必要条件であるから、本質的には個人が大切にされた結果個性の強調がなされているわけではないことは明確だろう。
第一、個性とは特定のメソッドを介して一方向的に現出するものではなく、幾らかの様々な経験を通してあくまで徐々に形づくられるものであって、その形成は常に混沌を極める。また、そこには選択に伴う大きな痛みの経験が必要不可欠である。個性の形成は壺の中に色々なものを混ぜて、徐々に壺を壊していく行為であろう。多分、壺の中には先天的にわずかなスパイスが入っていて、そこに徐々に後天的なものを詰めていくのであって、後天的に様々なものを詰めていく作業には当然壺にヒビが入ることによる痛みが生じているわけである。そうして機が熟して壺が割れたとき漸く、我々が尊重するところの個性というものが現出するのだろう。子供が天才的に見えるのは、壺の中に先天的なスパイスしか入っていないからだろう。それは大人から見れば純粋無邪気で個性的に見えるかもしれないが、そんな天才性は少し時間が経って様々な経験を経れば、木っ端微塵に砕け散る。もちろん、その後壺の中に雑多なものが入らなければ純粋性は保てるかもしれないが、この情報化時代にそれは容易ではないだろう。そういう純粋個性は例えば原住民族的な世界、つまりは都市の雑多なミームから隔絶された世界でのみ華開くように思われるが、ただし、そんな生活下ではそもそも自身の個性を表そうとする行為さえ必要ないし、行おうとさえしないかもしれない。
純粋個性の代表である子供は、創作意欲を自覚して絵を描いているのではなく、ただ絵を描いているに過ぎず、そこに自身の個性を現出させようという作為は毛頭無い。少なくとも目的や意欲を客観的に意識してはいない。要はそれと同じで、純粋個性は却って個性の発露を意識しないものであり、そうして個性の客体化が阻害され恒常性を保つのである。ゆえに純粋個性を持つ稀有な人間は、一般に個性の現出を主軸に置いている芸術家とは一線を画す。ゆえに天才的な芸術家となり得るのである。しかし、そんな芸術家はおそらくほとんど存在しないだろうし、この文章を読んでいる時点で、あなたの壺には純粋性を汚すいくらかの情報が入ってしまっているから、そんな地点から遠く隔ててしまっているだろう。晩年、ピカソがなぜ、子供っぽい絵を目指したかは、こういう純粋個性に対する決して届きえないが故の憧憬があったからだろう。なぜなら、彼が天才と謳われるようになったのは、純粋個性の現出によるものでは全く無く、あくまで上述の一連の壺の崩壊による個性の現出によるものであるからである。(実際、彼の晩年の作品は子供の作ったものと似ているがどこか異なっている。)結局、個性の確立は上述したように一分野において様々な経験を積むしか道は無いだろう。この情報化時代では、そもそも壺には絶えず色々なものが知らず知らずに投げ込まれていくから、壺に何を入れるのかは取捨選択する必要がある時代である。どこに冗長性を組み込み、どこに選択性(つまり体系化)を加えるかの解とは、まず自身の学ぶ分野には選択性(=体系化志向)を保持して目に見えない主柱を作り、他はその主柱に枝を伸ばせるように冗長性を容認することである。ちなみに、これは生物の進化モデルと全く一緒である。(私は芸術制作をある種、無機的な何かとして捉えているのだろうか)