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遠野にいってきた④

1/30〜2/2まで、ニシさんがやっているやまの自習室というワークショップに参加してきました。
ここまで、遠野にいってきた①〜③までで、
ワークショップに参加することにした経緯、
参加するための準備、
いったいなにをワークショップでしたのか?
何をしに行ったのか?
について自分の備忘録として書いてきました。
それでも、自分の感じていることや考えていることを、書き留める、またそれを伝えるという形になると、物足りなさと字数の多さを感じて、
noteってメモ帳に書き留めるのと違って難しいな。と実感しています。
でも、せっかくなので、やらないよりはやってみる。やってみようと思った時が機が熟した時だ。と思うので、下手くそかもしれないけどやってみる。
なにより自分が自分を救うために、書いてみる。
そんかnoteです。

そんなことを考えながら、
その時の自分の感情や思考がメインで
その場や事象が実際にどうだったのか?
会話をしていた相手は何を言っていたのか?
という事実が置いてきぼり、
かつ相手はどんな景色を見ながら話しているのか?
とかは想像していなかったな。
どこまでも自分のことで精一杯だったな。とも。
でも、自分のことしか考えられてなかったというよりも、自分のために自分と向き合うために訪れた場所という意味では、自分と相手との間で起きた化学反応を自分なりに咀嚼して言語化したということで、まあ、良いのかもしれない。
あと、セラピーやカウンセリングとは異なる会話ってなんだっけ?とも。コロナ禍一人暮らしで仕事か家かで、人との交流は同僚とする少しの会話や買い物して会う近所の人だけだったところから、よくわからなくなってしまってるのかも。

今回の目次はこちら。

脱線してしまいましたが、
↓前回までのはこちら。ぜひ。

やっと完結編

今回は、④ということで、
滞在中に心を揺さぶられたり、ほっとしたことや、印象的だったことについて書こうと思う。
なんといっても、この3泊4日は自分へのとびっきりのプレゼントのようだったから、忘れたくない。
(この体験が何よりも変え難くて5月の逐語録のワークショップに参加したくて、電卓を叩いているところ。参加したくて参加したくて、通帳とフォームを交互に見てる。捻出しよう。)

うわぁと毎回声が漏れるご飯

なによりもこの滞在中、楽しみにしていたのはご飯。
というか、滞在ではなくても、食べる事が大好きで365日四六時中、意識せずに思い浮かぶのは食べるもの飲むもの。食い道楽。

プレートの上に、あらかじめ盛られた副菜たち。
大皿からおかずやパン、おこわなどをよそい、
みんなで取り分ける。
炊飯ジャーから混ぜご飯やおかゆ、鍋から汁物をよそう。
食事を共にする人たちと、大きなものからそれぞれ取り分けるという行為に、幼い頃からの食事の原風景を思い出される。
家族や親戚とのいやなことやしこりについて考えることが大きい最近だったけど、いつでも食事はあたたかいものだったなと。
大人になると、1人で暮らしていたからか、
食事は満腹になるものや管理するものになり、
満足するものという意識が薄れていたのかも。
そして、食べることが好きだけど、
好きな食材や馴染みの調理法や味付けに固執していたり、ストレスによる過食で食べることは罪悪感を抱くことのようになったり、純粋に楽しめていなかった。

もう一度、食べることが純粋に好きで、
香りや温度、食感、季節など、食事を通して
豊かに感覚が刺激されることを経験して。
お腹がいっぱいになる満腹ではなくて、
満足、気が満たされるご飯を3泊4日でいただいて、
こんなによくしてもらって良いのかしら?と不安に思うくらいでした笑

里芋の揚げ物が!!!もう好きすぎた。
このスープがなんとも。毎朝食べたい。
シェパーズパイ。イギリスのあれです。
もう!目で見て美味しい。
わくわくほくほくせいろオープンタイムです。
三陸のわかめも、和物もぐっ!!!
なにより里芋と鱈の揚げ春巻き。
思い出しただけで涎が出る
くるみのおしるこ?ぜいたくなデザート。
肉まん。八角が効いてて美味しかった。
この日の朝食がですね。忘れられない。
ピリリとスパイスがきいてるけどききすぎず、
あたたかいごはんだった。
カレー!おいしい!!!
漬物は、ほんとに、好き。
どちらのパンも!ふかふか
毎食、みんなでうわぁーい!というのも
一つの楽しみでした。
楽しいワクワクな気持ちを共有するのへ
とても幸せになる
魔女のマフィンみたいでかわいき。
金柑のマフィンも、がんづきもおいしかった...
帰りの新幹線で、買って帰ってきたあやこさんのクッキー。

クイーンズメドウといえば馬

滞在前はクイーンズメドウという場所についてよくわかっていなかったし、馬も他の馬と扱い方や接し方が違うみたいだけど具体的にどう違うのかはいまいちわからなかった。
でもなんだか、同じ場にいる生物として対等な生き物として接しているんだなと感じていた。
前述したように、はじめは私は馬が怖かった。
なにより身体が自分よりとても大きいし、
目が合うと見透かされているような気がしたし、
私なんかが接して良いのだろうか?みたいな気持ちだった。

牝馬
牡馬

この2枚が初めて会った日の恐れが現れている、距離感の写真。
普段は、敷地内を自由に過ごしているらしいが、
昨年末に牝馬が牡馬2頭がいる場所に行き、
牡馬がお互いその1頭を巡って、取り合いというのか、守り合うことをして怪我をしてしまったらしい。
牡馬2頭を同じ場所で生活させるということは珍しく、また去勢をしてないことも珍しいという。
そんなこともあり、私が訪れた時はクイーンズメドウでも珍しく、牝馬3頭は馬房で、牡馬2頭は少し離れたところで過ごしていた。
なので、牝馬のエリアナ、エリ、エリザにはすぐ会おうと思えば会えるラッキーな状況だった。この子達にしたら、なんでよ〜ていう感じかもだけど。

2日目の朝、馬事に参加した。
馬房の掃除やボロの片付け、ブラッシングなど。
馬房の掃除はその日は終わっていて、
みんなでボロの片付けをしてソリで畑に持って行き、牝馬3頭のブラッシングをした。

畑まで過酷だったけど
景色が綺麗
エリアナ


最初は恐れ多くて触れなかったけど、
1番年長のエリアナが"触っていいよ""ここが気持ちいいよ"とまるで教えてくれるかのように、
身体を近づけてきてくれて、
気持ちを落ち着かせてからブラッシングをした。
触れ合う前に、馬と関わるときには昔のことや未来のことを考えずに今にいること、
馬の後ろに立ったらよく危ないというけれど、そういう関係性を作らない、ならないこと、
関わることに馬の反応を具にみること、
被食される草食動物のため変化や刺激にとても敏感で、平面で見ていて変化を素早く察知すること、
食べている時間がほとんどで食べることを邪魔されることを何とも思っていないこと
などを聞いた。
どうしたらいいか、これをするな、ではなく、
馬とはこういう存在だということのお話しをされていた。
それを聞いた私は、じゃあ馬とどう接する?
と試行錯誤しながら近づいていった。
馬はどこまでもあたたかく、でも距離があり、
お互いがお互いでいる存在だと感じた。

森田真生さんの連載に
QMのことが書いてあり勧められて
読んでみた
朝散歩に行く前に行ったら
目の前に来てくれて、触って挨拶したら
満足げに水を飲んでいた
(投影かも)
白いまつ毛
ふかふかの身体
最後の日、覗きに行ったら

今回は自分の体力的なこともあり、
馬事には1回だけの参加だった。
もっと自信を持って活動できる体力をつけて、
馬のこと、馬とのことの話を聞いたりしたいな。

雪山歩きというか、散歩

QMに滞在している間、
毎朝散歩して、日中も気が向いたら散歩していた。
1人で散歩したり、以前来たことのある仲間に案内してもらったり、ニシさんにハヤチネンダの墓域を案内してもらったり。

初日、日が暮れるまでに戻ろうと、
山を登る。
これを渡るのが怖かったビビり。
みんなが生活してるとわかり、
心強い足跡。
朝、清々しい。
ニシさんにジャンプして降りると言われ、
雪にハマる。楽しい。
朝1人で駒形神社へ。
犬の足跡。
川のこの音がとっても良い。
水源豊か。
池。
狐の足跡。

普段、犬の散歩をしたり、
関東平野の空が広い真っ平らな土地を散歩するけど
山道や雪の中を散歩することはほとんどない。
息が上がり歩くこと以外考えられない中
歩くのはとってもマインドフル。
たまに、家の犬に会いたくはなる。

雪道を散歩することは、
他の人の足跡や動物の足跡をみることにもなり、
他にも歩いた人がいるから、と、とても励まされる。

ニシさんに案内してもらったハヤチネンダとは、QMと荒川駒形神社と共に、従来の家制度にとらわれず、生前の個人が還る森にコミットするという埋葬のプロジェクトである。
お墓としてだけではなく、「未来に遺したい風景をつなぐこと」や、このプロジェクトを通して「人の居場所をつくること」としての役割りもになうよう。
言葉が足りない気もするけど、気になる方は検索してみてください。

死生観、として森に還る。そして生前から自分が還る森に関わる。そしてそれが里山が残ることにつながり、その関わりを通じて人との関係ができ、居場所ができる。
とても良い。凄い納得できた。
お墓に入ることが腑に落ちないことは、私もある。
私が信仰している宗派と、実家のお墓がある宗派は違うから、最近よく考える。
先祖と同じお墓に入ることには受け入れられる、でももし今の婚姻制度で結婚して相手の家のお墓に入るものだと思っているけど、もし自分で埋葬される場所を選ぶとしたら、どうするのだろうか。
まあ、幼い頃好きだった田園風景や里山の風景が、ソーラーパネルだらけになる寂しさはここ数年で何度も味わっている。
実家が農家の友達たちは、いかに実家の畑や田んぼを手放さず、少しでも良いから農作物を作りたい。ソーラーパネルにはしたくない。とよく話している。
失われていく風景に、自分の過去が消えるわけではないけれど、無機質なソーラーパネルに変わることは何だか許せないと。
そんなことを考えさせられるハヤチネンダだった。
近所でもそんなことができれば良いなって。


楽しかったあれや、これ。

QMの中は床暖がきいていて、
裸足であるっても温くて、そして木の肌触りも心地よかった。
あと、長年土間のある家で育ってきたから、
土間で生活するのがまた郷愁...。
好きなことや心地よいことを思う存分と味わった滞在でした。

夜、寝床の新棟に行くとき、
見える星や聞こえる川の音がとても良かった。
アームズメソッドについても教えてもらった!
お豆買い忘れちゃったんだけど、
後から配送お願いした◎楽しみ
little mozartというお店です。チェケラ👏
薪割りの後。
薪割り下手くそすぎた。
4日間お世話になったお部屋。
この景色に惚れて、来たのかもしれない。
乾燥してる薪が圧巻。
最後みんなが見送ってくれているところ

行ってよかった

帰りの新幹線にて、少しお昼寝をして、行きの新幹線と自分が違うことに気づいた。
行きは、わくわく浮き足立つような感覚もありながらも、
こころが丸裸で持っているものが溢れ出ないように、
刺激に反応しないように、
とても注意深く気をつけながら
いっぽいっぽ遠野に近づいていった方が大きかった。
普段だったら、
誰かといながら何かをすることが負担なのに、
人が集まって寝食を共にするものに参加することは考えられなかった。

当初、滞在ではいまここをテーマにしながらも内省をすることを考えていた。
しかし、まったく違うものとなった。
出会う人とも、馬とも、食事とも、景色とも、自分とも、ほんとうに"いま"を一緒に味わって、漂って、感じて、たくさんの栄養をもらった。
誘われるように遠野へ行き、現実的な自分を取り巻くものは何も解決していないけど、自分の有り様が変わったことを日々実感していった。
この世界を、出会う人を信頼することができた、
心の底から、いま求めているものに出会えたような。

この先のこと、なんにも決まってなくても、
自信を持って歩める。話せる。息をできる。
地に足つけて、踏みしめて生きている。

心の底から生きている実感を得たように思う。

また、ニシさんのワークショップへ行き、遠野へ訪れたい。

やまの自習室、で救われたように思う。
またみんなとも再開できると良いな。

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