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オレの相棒<あいぼう> 第10回




昭和18年8月26日




成岡「やっと着いたぜ!

   やっぱり故郷はいいねえ!

   こっちが先になって悪いが、

   ハチ、少しの間、

   我慢して待っててくれよ!」



成岡は、今、4年ぶりに故郷、高知にいる。
あれから成岡は、数々の作戦に参加。
華々しい武勲(ぶくん)を立てる。

上層部にも認められ、作戦終了後、
1か月の休暇を、与えられた。

一刻も早く、上野へと向かいたかったが、
母親の具合が悪い、との知らせを受け、
まずは、高知により両親に先に会い、
その後で、ハチに会いに行く予定である。


成岡「ハチは、今日も、独りで淋しく
   オレの来訪を、待ちわびてるだろうなあ。

   
   オレの姿を見たら、ハチのやつ、
   飛びついてくるかなあ・・・

   いやまてよ、昔通りに、
   手や足、顔を、あのザラザラ
   した舌で、なめてくれるだろうか・・

   ん~・・早く、ハチに会いたいな。」


成岡は、待ちきれない気持ちを、
抑えきれずに、上野動物園に、
ハチの安否照会の為、
電報を打った。



「ハチケンザ  イナリヤ  ナリオカ」




ところがである。
いつまで経っても
返信がこない・・・



成岡「遅い・・・遅すぎる・・・


   どうなっていやがるんだ。福田さんよ。」



それから、またしばらく時間が経つが・・
未だ、上野動物園からの音沙汰は無い・・・






この回を、どう書き始めていいか迷っている。

そして、この回を、どう進めていいか、

この物語を始めた時から、迷っている。


読者のみなさまに、お詫びしなければ
いけない点が、2つほどある。


1つめは、今回、いや、長ければ次回も、
今までの、物語形式、小説形式に、
捕らわれない、逸脱した形式になる事を、
まずは、お詫びせねばなるまい。


この回の為に、初回の冒頭から、
私は、なるべく”動”の物語として、
書いて来たが、これよりは、
”静”の物語になる事を、
あらかじめ、ご承知願いたい。


2つめは、この物語は、
ハチと成岡の物語であるが、
この回は、どうしても彼らが
中心から外れる事を、お詫びしたい。


結果的には、ハチと成岡に
たどり着くのだが、
事情説明がいる為に、


福田三郎(当時、上野動物園園長代理)
の著書を中心に展開するので、
ハチと成岡は、中心から外れる。


まだ、読者は、何の事だか、
理解されないと思うが、
とりあえず、頭の隅に
入れて置いて頂き、
物語を再開しようと思う。






時計の針は、少し戻る。


昭和18年7月1日


「帝都防衛の強化」


を目的として、


当時、東京市と東京府の

2重行政が問題になっていたが、


東京市は、東京府に併合。



ここに、

東京都が誕生する!



そして、現在の都知事にあたる、


初代東京都長官には、


昭南(しょうなん)特別市長も務めた。

(昭南=日本占領時代の、シンガポール
    現在の市でなく、全域を指す。)


大達茂雄が、就任する。



この男が、初代東京都長官に就任した事で、



ハチと成岡の運命は、大きく狂わされる。




この頃、日本の戦局は、
5月に、2つの大きな衝撃を受けていた。

1つめは、
山本五十六連合艦隊司令長官の戦死

2つめは、
アッツ島の玉砕である。


まず、そういう状況にあると、
ぼんやりとで、よろしいので、
読者は、念頭に置いて頂きたい。


この回は、読者への”ことわり”が、
度々出て、申し訳ないと思うが、
更に、ことわりを、
書かなければならない。


それは、何かというと・・・


これより物語を進めるにあたって、
少し読者に、考えて頂きたい事がある


現在、ウクライナのような戦争状態に、
我が国が、もしなった時に、
敵からの空襲が、街を襲うであろう。


そうなったときに、
みなさんが、よく知っていたり、
よく行く動物園などに、


爆弾が落ちたら、
どうなるか?


檻が破壊され、動物たち、
特に、猛獣たちが逃げ出し、
街中に乱入してきたら、
果たして、どうなるだろうか?


東京都なら、小池都知事は
どうするだろうか?


みなさんのお住まいの、
知事は、どうするだろうか?


この回は、これより、
”そういう話”を、する事になる。


1つだけ、心掛けて頂きたいのは、
これより展開する、”そういう話”は、
決して、遠い昔の事だと、思わないで頂きたい。



寄り道は、ここまでにし、
物語を、前に進める。


動物園が、空襲を受けた、


万が一に備え、

動物たちの処置は、どうするのか?



この話は、いつ頃
出たのだろうか?


福田三郎著「実録上野動物園」(講談社)


この本を頼りに、探してみる。


昭和12年(1937年)


9月2日と、5日に、
空襲にそなえて、屋外から
灯りが見えないようにする、
”灯火管制”の訓練や、

15日には、猛獣舎前で、
防空演習とある。


昭和13年は、
これのみだが、

翌年になると、
7月に、檻が破壊され、
猛獣が逃げ出したら?

という想定で、


小鹿と、生後1か月の
ヒョウが放たれて、
猛獣網などを使って、
演習が行われた。


その翌年にも、
空襲に対する訓練が
行われた。


まだ、動物たちの
処置については、
具体的な物が無かった、
印象を受けるが・・・


昭和16年8月5日に、
本格的に、その事が出る。


ちなみに、この少し前、
当時、園長だった

古賀忠道(こがただみち)

に、召集令状が届く。

(召集令状
 =軍隊への、召集を命じる命令書)


古賀園長は、鴻台(こうのだい)へ入隊。

鴻台とは、現在の、千葉県市川市のあたりで、
恐らく、そこに、軍の施設などがあったと思われる。


福田には、園長代理を務める辞令が出る。

余談ではあるが、上野動物園に、
”園長職”が、正式に置かれたのは、
1936年(昭和11年)
クロヒョウ脱走事件
を機に、


それまで、園長職
なかった事が見直され、
園長制度が、出来る。


古賀が、正式な初代動物園園長となる。


古賀の前には、2代、園長相当に
あたる職を務めた人物がいた。


1900年からは、石川千代松が、
初代上野動物園監督という役職名であった。


1907年には、石川が退職する。
後任には、上野動物園で、
最初の獣医となった、


黒川義太郎
が、園長相当職に
就(つ)いたのだが、
黒川は、上野動物園主任
と、呼ばれる役職名だった。


黒川は、健康をそこない、
1933年(昭和8年)1月に、
退職しているので、


そのあとは、
古賀が、園長相当職を
務めていた事になる。


更に、余談にはなるが、
昭和11年3大事件とは、


  • 昭和11年3大事件

    1. 2・26事件 

    2. 阿部定事件 

    3. 上野動物園クロヒョウ脱走事件


この3大事件を指す、
クロヒョウ脱走事件については、
機会あらば、書いてみようと思っている。


本題に戻るが、
昭和16年8月5日に、


経済局農業課長から、
動物園が、空爆を受けた場合
どう処置するのか
を、
福田は、色々と聞かれた。


それから、数日後。
福田は、
東部軍司令部獣医部から、


非常時における
動物園の対策に関する文書を、
提出するよう求められる。

そこで、福田は、
以下の2つの文書を、
東部軍司令部に送付した。


1つは、

「非常時における
 上野動物園職員の勤務編成」


2つめが、


「動物園非常処置要綱」



である。


内容を、おおまかに解説すると、
動物園で、飼育している動物を、
4種の、危険度に分ける。


第1種(最も危険なるもの)

主に、猛獣類

ライオン、トラ、ヒョウ、クマ
ゾウ、マントヒヒ、ガラガラヘビなど。


第2種(比較的、危険の少ないもの)

アライグマ、オットセイ、キツネ、
タヌキ、キツネ、キリン、シマウマなど。


第3種(一般家畜類)

水牛、フタコブラクダ、ロバ、
ブタ、ウサギ、ガチョウ、ニワトリなど

第4種(その他)

カナリア、鳥類、カメ、小動物


周囲の状況に応じて、
その動物たちを、危険度に応じて、
人々の心を、刺激しないような形で、
どう処置するのか?


そのような事が、書かれている。
一例を挙げると、


猛獣に関しては、
薬殺を基本として、
余裕のない時は、銃殺とある。


福田は、非常時には、
兵隊の応援と、銃殺の依頼をし、
これを、軍は承知した。


それからしばらくして
9月7日から8日にかけ
英国空軍が、ベルリン市を空襲。
ベルリン動物園に、爆弾が3発命中。


これにより、ゾウ、ラクダ、
飼育員1名が死亡
という
ニュースを、いあわせた
朝日新聞記者より伝え聞く。


さかのぼること、
1940年、
12月4日には、
ドイツ空軍による
ロンドン空襲で、


ロンドン動物園に
爆弾が命中して、
ライオン、トラ、クマが、
檻から脱走したのを、


動物園職員が、銃殺する、

という悲劇も、
福田は、ベルリンの事と併せて、
思い出した。


福田は、だんだんと来るものが、
近づいて来た気がする
と、
自著の中で、そう書いている。

年が明けて、
1942年(昭和17年)


4月18日、土曜日。
晴天だったため、
3956人の来園者を迎え、
大変、にぎわっていた。


ちょうど、午後0時30分。


”ウウウウウウ~~~~~~”



(#大東亜戦争時の空襲警報)


突如、サイレンの音が鳴り響き、
空襲警報が、発令された。


平和だった動物園の光景は、一変する。
すぐに、園内の入場者を、避難所へ移動。
午後2時からは、退園をうながし、
午後2時20分には、入場者全員を退園させた。


また、この日、
福田が、外出して戻ると、
丁度、動物園の裏門に来た時に、

キリンの檻、上空をかすめて、
低空飛行する、敵機を目撃している。


この日、東京は初空襲を受けた。


ドーリットル空襲である。(第7回参照)


空襲警報は、翌日の日曜日にもあり、
9570人もの、入園者でにぎわった園内も、
再び、前日と同じように、退園させた。


なお、空襲以来、チンパジーが食欲を失うなど、
動物たちにも、影響を与えたようだ。


福田が、18・19日に起きた事を、
後日、公園課に報告に行き、
空襲時に、客の扱いを、どうしたらよいか?
と、相談したところ、


客の任意に任せる、との回答であった。


また、この頃より、
動物園の職員に、
召集令状が届き、
入隊になる、との記述が
度々、出るようになる。


同年5月、ハチが、
上野動物園で、
飼育されるようになる。


ハチが、上野動物園に来た頃というのは、
こういった状態の時である。


この東京初空襲から、
空襲警報の記述が、多くなるので、
ハチは、何度もこのサイレン音を、
耳にしていたのではないかと、思う。


ハチが、上野動物園に来たこの年、
昭和17年9月の、
「実録上野動物園」の記述を見ると、
私にとっても、そして、ハチと成岡の物語を、
続けてご覧頂いてる、読者にとっても、



”驚くべき記述”が、

あったのを、私は発見した!



まず、読者に詫びねばならないのは、
この回で中心となっている、


福田三郎著「実録上野動物園」と、
今まで中心であった、
成岡正久著「豹と兵隊」とは、


「全集 日本動物誌4」(講談社)


という、一冊の本の中に、
収録された作品である。


「実録上野動物園」は、
福田が、上野動物園に来た、
大正11年から、昭和27年までを、
年表の様な形式で、つづ った作品で、


かなり長いので、私は今まで、
「豹と兵隊」とは異なり、
部分的にしか、読んでいなかった事を、


正直に、読者のみなさまに詫びて、
話を続けたいと思う。


まずは、今回、この回を書くにあたり、
「実録上野動物園」を、
必要な箇所から、改めて読んだ末に、
発見した事を、引用して

読者には、ご覧頂きたいと思う。




九月の末には、中支派遣鯨第六八八四部隊長、
今井亀次郎氏から、手紙が来て、
前に述べたヒョウの成岡曹長が、


「八紘」と一緒に捕らえた雌ヒョウを、
寄贈してもよいというので、


上司に相談したところ、
受け取ってもよいと言われ、
その旨、返事を出した。


雌のヒョウは今、漢口華中鉱業株式会社に、
おいてあって、大変気が荒くなっている
とのことであった。

引用元 全集日本動物誌4 福田三郎著「実録上野動物園」P88(講談社)



雌(めす)のヒョウとは、第1回で、
牛頭山で、ハチと共に捕獲された、
”ハチの妹”とも、いうべき存在であり、


また、第6回では、外伝で、
この妹について、成岡の著書を元に、
私なりに、書いてみたのだが、


成岡の著書には、なかった、
外伝のその後が、
受け入れた先の、
福田の著書には、あったのだ!


これを発見した私の喜びは、
相当なものであったが、
それと同時に、


成岡正久という人間の、
誠実さと愛情が、
これほど奥深いのかと、
更に、成岡への敬意は深まった。


成岡は、ハチの妹を、
あのままにせず、
きちんと、救い出していたのだ。


戦争が激化する日本で、
空襲の恐怖に、
おびえる日々では、
あったが、


そんな中で、ハチと妹は、
時を経て、お互いに異なる環境で
育ちながらも、牛頭山以来、
こうして、上野動物園で、
再び、共に暮らしていたとは、
非常に、感慨深いものがある。


戦争が激化する中という、
決して、喜べる状態ではないが、


この事実を、読者にお伝え出来て、
本当によかったと、
私は、胸をなでおろしている。


12月には、第9回にて記載した、
皇太子殿下(現:上皇陛下)が来園。


福田の著書によると、
12月6日 8時20分来園。
午前10時には、
ご機嫌よくお帰りになった、とある。



年が明けて、
運命の昭和18年を迎える・・・


正月の三が日は、戦時下にも関わらず、
例年通り、大勢の来園者でにぎわう。


しかし、同じ1月末には、
資源不足を補うために出されていた、
「金属類回収令」の影響で、
軍の係員が来て、


来園者用のイス、人止め柵、
動物舎の名札、餌を入れる容器など、
人間と同じで、赤紙を貼られていった。
園内も、戦時下色に染まっていた。


「空襲は必ずある」と、
この頃、さかんにいわれていたようである。


これもまた、1月の記述に、
朝、昼、夜と、
防空演習に追われた
と、
福田は、書いている。


では、戦時中、
来園者がいる中での、
動物園の防空演習とは、
いかなるものなのか?


あまり、知る機会もないと思うので、
少し紹介したいと思う。


まずは、動物園内に
設置してある、
拡声器から、


「敵の飛行機が来て、
 

 動物園から、あまり遠くない所に、

 

 爆弾を投下しました!」




と、入場者に知らせる。


次に、動物園の警護班によって、
入場者は、木陰や、建物のかげに誘導される。


その間に、防護団によって猛獣たちは
檻に入れられしまい、運動場に、
動物たちは、全くいなくなる。


動物舎の前にいた入場者も、
動物が、いないとなると、
自然、誰も入場者は、いなくなる。


動物園の職員は、
園内のあちこちを駆け、
入場者を、避難誘導する。


ついさっきまで、
平和そのものであった
動物園の光景が、一変する。


ここから更に、注目してもらいたい。


本部が、事務所になっているのだが、
園長が、動物に与える”毒薬”を、
防護班の者に渡し、猛獣の処置を命じている。



防護班の者は、以下のように、
猛獣の処置を行う。

まず、渡された毒物を、
あらかじめ用意してあった、
動物たちのエサに混ぜる。


その後、動物舎のある方へ、
全力で駆けてゆく。


我が子とも呼べる、
長年、持てる愛情を注ぎこんだ、
愛すべき動物たちへ、
毒入りのエサを与え、
ただ殺すためだけに、駆けてゆく・・・



「敵の飛行機は、

 

 帝都を爆撃し、去って行きました。」




そうこうしている間に、
拡声器から、敵機が去った事が告げられ、
園内の厳戒態勢は解かれる。


やがて、動物たちは運動場に戻され、
職員たちは、入場者の相手をする、
いつも通りの、のんびりとした
平和な上野動物園に戻る。


以上が、防空演習の様子なのだが・・


この頃になると、目的が変化してきている。


動物たちの捕獲から処分、すなわち、
殺す方向へと、大きく舵(かじ)が、切られている。


しかし、あくまでも、実際に空襲を受けた際の、
処置であり、空襲を受ける前段階の、
予防的ともいえる、猛獣処分ではなかった。

このことを、読者は頭に入れて置いて頂きたい。


前述した、空襲で食欲の無くなった
チンパンジーだが・・・


新緑の頃に、オスが、元気も食欲もなくなり、
手を尽くしたが、あえなく死んだ。
その後、メスも発病して、
看病の甲斐なく、後を追うように死んでいった・・・


だいぶ長い道のりを経たが、
冒頭へと、ようやくここで戻る。


昭和18年 7月1日


東京都制という法律により、
東京都が誕生、
現在の、東京都知事にあたる、


初代東京都長官には、
昭南(シンガポール)特別市長として、
現地で軍を抑え、南方建設に尽力した、


大達茂雄(おおだちしげお)が、
任命され、その手腕が期待された。


恐らく、この頃と思われるが、
NHKに、その時のニュース映像が残されている。
NHKは、取り扱いが難しいので、
URLを直接貼らないが、


興味のある方は、

NHKアーカイブス

初代都長官に大達氏<大東亜建設譜>


このタイトルであるので、
ご自身で、確認していただきたい。


大達茂雄とは、
いかなる人物なのか?
経歴を、簡単に紹介する。


1892年(明治25年)1月5日、
島根県、那賀郡浜田町(現:浜田市)で、生まれる。

東京帝国大学法科大学政治学科卒業後、
内務省に入る。


福井県知事、満州国法制顧問、
満洲国総務庁長などを歴任。
その後、内務次官、昭南特別乨市長を務め、
初代東京都長官に、就任する。


卓越した行政能力を持つ官僚であると、
華々しい経歴が、それを証明している。
積極的な国家観を持ち、国の為に尽力するタイプだ。


しかし、福井県知事時代には、
県会と衝突し、それに対する内務省に
不満を感じ、辞表を提出したり、


満州国時代には、関東軍と衝突して、
辞任するなど、その強硬な姿勢に、
批判的な評価もあり、評価の別れる人物である。


大達茂雄が、初代東京都長官に就任して、
わずか、1か月半後・・・





昭和18年8月16日  昼前


福田は、この間まで、東京府新庁舎、
と呼ばれていた、現在は引き継がれ、
東京都庁舎の中を、忙しく歩いている。


井上清<公園課長>に、電話で呼び出され、
直ちに来るようにと、言われた為であった。


猛獣処置の件に、違いない。
福田は、直観的に感じた。


庁舎内の廊下を急ぐ、
福田の手には、
電話を切った後、
すぐに書き上げた、


”殺害せねばならない動物”の、一覧表があった。



公園課長室の前まで、あと少しという所で背後から、


”福田くーん!”



振り返ると、古賀忠道園長がいた。
古賀は、1942年(昭和17年)、
12月より、陸軍獣医学校で、
教官として着任して、
軍犬学や軍鳩を、教えている。

忘れている読者も、おられると思うので、
再記述にもなるが、古賀の事を、丁寧に書く。


古賀が、軍に召応されたのは、
1941年(昭和16年)7月29日。


召応とは、軍に呼び出されて、
軍隊に所属して、軍務に服する事をいう。


召応された後、古賀は、
陸軍野戦重砲兵第十連隊に入隊し、
その後、南方総軍獣医部へと配属された。


サイゴンやシンガポールなど、南方戦線で活動し、
1942年12月10日からは、陸軍獣医学校に着任している。


古賀が、除隊するのは、
1945年(昭和20年)9月4日。


動物園園長に、復帰するのは、
東北に疎開していた、家族に再会した後、
1945年10月14日である。



福田「園長!

   もしや、園長の所にも電話が?」



古賀「ああ、福田くん。
   
   嫌な予感がするのだが・・・」



福田「私もです。園長。

   こうして、”一覧表”を作成して来ました。」


古賀は、福田から一覧表を手渡されると、
一通り目を通して返した。


古賀「これが、不必要ならいいのだが・・」


福田「そう祈りたいです。

   園長、とりあえずは、

   公園課長に、会いましょう。」



古賀「ああ、そうだね。

   話を聞いてみないとね・・・」


”コン!コン!”


ドアをノックし、”失礼します”と、
両人が言い、中に入ると・・・


夏の熱い日差しに照らされた、
都庁舎の中庭を、窓ガラス越しに眺め、
背を向けている、井上清公園課長がいた。


井上は、1923年(大正12年)から、
公園課長として就任し、造園家として、
東京の公園や都市緑地の拡充に尽力する。


関東大震災からの、
帝都復興に、重要な役割を果たす。


「清澄庭園」が、現在あるのも、
井上の、功績の一つとして挙げられる。


もともと岩崎家の所有地で、
「深川親睦園」として親しまれていたが、
震災で大きな被害を受けた後、


井上が、岩崎久弥を、
災害時の避難空間として果たす、防災効果を強調し、
説得を重ねて、1924年、東半分を東京市の寄付。
翌年に、清澄庭園として、一般公開する。


井上とは、このような功績のある人物である・・


その井上が、都庁舎の中庭を
見たまま、二人に背を向けて、
入室した彼らに、一言も声をかけない・・・


たまりかねた二人が、声をかける。



古賀・福田「公園課長!」



ようやく、井上が口を開いた。


井上「忙しい所、すみません・・・。

   実は・・・

   大達東京都長官より、命令が下りました。」



古賀と福田は、互いに顔を見合わせた。
井上は、背を向けたまま、言葉を続ける。



井上「戦局が、悪化したわけではないですが、

   万が一に備えて・・・


   

  一か月以内に・・・



   

 動物園の猛獣たちを、殺処分してください!




  ただし、世間の人々が不安がるので、


  銃殺は、禁止にします。

  

  毒殺で、猛獣殺処分を実行してください。」



古賀と福田の心には、この時、雷鳴が走った。


とうとうこの日が、来てしまった。
2人の頭の中は、真っ白になっていた。



井上「古賀園長、福田園長代理、

   辛い事とは、思いますが・・・

   どうか、猛獣殺処分を遂行してください。」


井上は、振り向いて古賀たちに声をかけた。
井上の表情は、沈痛の面持ちであった。


ただ、うなだれて聞くしかなかった2人。
先に、口を開いたのは、福田であった。


福田「公園課長。トンキーは!
   ゾウのトンキーは、

   大人しくて、年も若く、
   利巧です・・・

   なんとか、他の動物園へ、
   疎開させてやれないでしょうか?」



古賀「そうだ!うん。そうだね。
   トンキーは、大人しいから大丈夫だ。
   福田くん、どこかあてが?」



福田「はい、ちょうど、
   仙台動物園に、新しくゾウ舎が
   出来たのですが、ソウがいないとか。

   公園課長、他の猛獣たちも含め
   他の動物園への疎開を、ぜひお願いします。

   必要な事は、こちらでやりますので、
   公園課長、疎開先の動物園への
   打診を、お願い出来ませんでしょうか?」



井上「疎開出来るのなら、その方が・・。
   わかりました、やってみましょう。」



古賀・福田「ありがとうございます!」








やや少し先の事も含むが、
疎開計画について、先に記述しておきたい。


上野動物園百年史には、
井上が、疎開先の動物園に、
送った手紙の原案がある。


原案のメモ書きなので、
判読不明、順序不明という事
なのだが、
意味がわからない点もあるが、
原文だと、現代の我々には、
分かりにくいので、こちらで現代語訳にした。


とりあえず、引用したものを
一言一句、正確ではないが、
現代語訳にしたので、ご覧いただきたい。
なお、漢字の雄雌が、わかりにくいので、
こちらで、カタカナに改めてある。



突然のことですが、状況が非常に緊迫しているため、
今後の方針を決定し報告します。


現在、敵からの攻撃に備えてあらゆる対策が求められていますが、
都心部にある動物園として、動物たちの管理が重要な課題となっています。

そこで、猛獣を処分する(殺処分する)ことを上司と相談し決定しました。

希望があれば、これらの動物を軍需施設に移管することも検討しましたが、最終的には寄付や交換といった形で扱うか、
または処分することを決めました。
なお、処分は8月25日までに完了する予定です。


名古屋  豹   オス メス 2頭
     黒豹   オス メス 2頭

仙台  ゾウ    ♀ (注:原文でこのマークのみ)

引用元 上野動物園百年史 P171 P172より



あくまで、送った手紙のメモ書きなので、
これだけだと、よくわからないが、
参考までに、引用して記述した。


名古屋=名古屋市東山動物園

仙台=仙台動物園


上野動物園百年史や、
福田の著書によると、
名古屋と仙台、
それぞれの動物園は、こうなる。


後に、それぞれから返事があり、
まずは、名古屋市東山動物園から、


8月17日付の報告書

現在、当園には、トラが3頭飼育されており、
餌も不自由なく与えられていますが、
戦争の影響で、食料や飼育費用の供給が、
難しくなることが懸念されています。


そのため、動物の管理のためには、
虎の数を減らす(殺処分を行う)ことも、
考慮に入れる必要があるかもしれないと、
上司と相談して決める予定です。

また、具体的な指示を待っています。

引用元 上野動物園百年史 P172より


名古屋市東山動物園との、これ以後のやりとりは、
上野動物園百年史、福田の著書にも無い。


続いて、仙台動物園だが、


上野動物園百年史によると、
日付が、11日となっているので、
公園課長に、呼び出される前から、
既に、仙台動物園とは、
やりとりが、あったのやもしれぬが、


仙台動物園から、
インドゾウを、譲り受けたい
との、
手紙が、8月11日に、
到着したと記述がある。


その後、8月23日には、
仙台動物園の、
石井是順<事務長代理>が、
来園している。


石井は、仙台動物園としては、


ヒョウのオスも必要で、


交換条件として、
ミドリヒヒ、マントヒヒが、
出せると、伝えて来た。





ミドリヒヒ




福田は、早速、田端駅の佐藤定吉主任と、
鉄道輸送について相談。


田端から仙台まで、

ゾウ運搬費  130円

貨物車内修理  大工2名

材料五寸角4本  費用50円

附1人の旅費   費用3円


福田の著書によれば、
上野警察署に、
駅まで、ゾウを歩かせる許可も、
取得したという。


さらに、何度も打ち合わせをしたというから、
かなり細かい所まで、話は決まっていたようだ。


夕方に出発すれば、翌日正午には、
仙台に到着する、手はずを整えて、
福田は、井上公園課長に報告に行った。


結論からいうと、疎開計画は、頓挫 とんざする。


「上野動物園百年史」の記述と、
福田の「実録上野動物園」の記述と、
異なる部分はあるが、結果は、同じである。


「上野動物園百年史」の記述、


一、課長ト面談、仙台へ象運搬ノコトヲ話ス。

一、課長ヨリ電話ニテ都庁官ハ、中止セヨトノコトナリ
  都の責任問題ヲ云ハルト。
                       (上野動物園百年史)

引用元 上野動物園百年史 P172より



内容は、簡単にまとめると以下のようになる。


上司である課長と面談し、仙台への象の移動について協議しました。
しかし、その後、課長より電話で、
都長官から、この計画の中止を指示されました。
都の責任問題に発展する可能性があるため、
残念ながら計画を、中止せざるを得ない状況となりました。


少し先を読むと、公園課長が、都長官から、
ひどく怒られたようだ
という、記述があった。



続いて、「実録 上野動物園」の記述


仙台から引き取りに、石井是順氏が上京。
一緒に、課長に会いに行くと、

課長は、その前に、都長官に話したところ、
一蹴されたことを、心苦しそうに語った。
(東京が危険にさらされているのに、
 仙台も、いつそうなるか、わからないということで)

引用元 全集日本動物誌4 福田三郎著「実録上野動物園」 P99  講談社



、と 。 行間などは、読みやすいようこちらで
手を加えたものであるが、結果は同じである。


公園課長が、福田たちと会った後に
電話で、都長官から、ゾウの疎開中止

指示された事を伝える。


福田たちが、直接会う前に、公園課長は、
都長官に報告に行くが、拒否された。


これが、両方の違いなのだが、
「上野動物園百年史」の当該記述は、
福田三郎日記というものから、
引用して書かれている。


つまり、同じ人物が書いたものだが、
事実関係が、異なっているという事がある。
書いた時期などにより、そういう事は、
さほど珍しくないのだが・・・


今となっては、福田三郎しか知らないので、
どちらが正しいのか、確認にするすべ
がないので、あまり重要ではないが、
読者には、両方の発行年を記すので、
お好きな方で、解釈されるとよろしいかと思う。



「上野動物園百年史」(1982)

  「福田三郎日記」(1943)
(#本として出版されたのか、個人の日記なのかは、分からなかった。)


「実録上野動物園」(1968)


だいぶ寄り道をした。
本来の時間軸に、戻そうと思う。



動物園非常処置から、

 


猛獣殺処分へ、



大達東京都長官の登場により、
方向性は、明確に変わった。


少し先の、ゾウの疎開計画まで
紹介したのは、
彼の、猛獣殺処分に対する姿勢を、
知って欲しかったからだ。


彼の目的は、単に猛獣を殺処分する事ではなく、
真の目的が、その先にあるような気がする。
その事を、少し追究したいと思う。


その為にも、少し私自身の事を、
語ろうと思う。
この後にも、関連してくる事から、
短めにするので、少し余白を頂戴したい。


誰しも、子どもの頃に、
将来、どのような仕事をしたいとか、
将来、どのような道に進みたいとか、
ある程度になると、決めなくてはならない。


誰しもではないが、
大半の方が、何かしら、
映画、本、音楽、スポーツ、絵画など、
将来を決めるのに、影響された物があると思う。


私にも、そういう物があった。


飯森広一(1949ー2008)


数々の動物漫画を描いた、漫画家だ。

私は、親戚の集まりでは、
人といるより、その家で飼われている
犬などと、おしゃべりする方が好きな、
子どもだったので、飯森広一の描く、
数々の動物漫画には、魅了された。


ほとんどの飯森広一作品は、読んだ。
どれにも、魅了されたが、
とりわけ、将来を決めるのに、
深く影響を受けた、一つの作品がある。


それが、この作品である。











現在では、JC版、JCS版、全巻集めるとなると、
かなり高価な物になってしまい、おいそれと
手が届かない漫画に、なってしまったが・・・

( JC=ジャンプコミックス 

  JCS=ジャンプコミックスセレクション )


内容は、のちに、東武動物公園初代園長、
”カバ園長”として、多くの人に親しまれた、


西山登志雄(1929ー2006)が、
上野動物園で、飼育係をしていた頃を、
モデルにした、漫画である。


JC版の方には、巻末に、
西山登志雄自身が書いた、
動物コラムのような物がある。


全巻を集めたが、
大人になるにつれ、
悲しいかな、どこかへいってしまった。


私は、この作品で、
動物園の動物飼育、
そして、動物園の飼育係、
命の尊さ、素晴らしさを知った。


その中でも、特に影響を受けたのは、


JC版 第7巻 (P6~)

JCS版 第4巻 (P186~) 


「27頭のあいつたちの巻」



この話である。
ちなみに、この漫画は、
各話のタイトルの末に、”巻”がつく。


内容は、まさに今回展開している、

「猛獣殺処分」

を、テーマとしている話である。


細かい内容は、これから展開していく
物語と同じなので、深く踏み込まないが、
特に、この話に衝撃と影響を受けて、
将来、目指すべき方向の判断材料となった。


もう一つ、将来を決めるのに、
影響された物がある、
それが、こちらだ。





映画 「子象物語 地上に降りた天使」(1986)



これも内容は、戦時中の動物園。
特に、ゾウにスポットを当てた、
猛獣殺処分の話である。


この映画では、特に、
ゾウというものが、
より好きになり、


この2作品により、
少年時代の私は、
将来の道を、


動物園の飼育係として、
なにより、
ゾウの飼育係として
将来、仕事がしたいと、
明確に、進路を決めたわけだが・・


ただ、昔を懐かしむために、
この話を、したわけではない。


理由がある。
この本を、ご存知だろうか?






有名なので、ご存知の方も多いかと思うが、


「かわいそうなぞう」



それに、この話をモチーフとした、


こちらも有名な、


藤子・F・不二雄原作、
漫画・アニメ作品 

「ドラえもん」


その中の、

「ゾウとおじさん」


年代問わず、このエピソードを、
漫画やアニメで、知る機会が多いので、
ご存知の方は、多いかと思う。


おおまかな内容は、
先にあげた、
私が影響を受けた
漫画や映画と同じだ。



飯森広一
には、

トンキー物語という、


ジョン、トンキー、ワンリー、

3頭のゾウを、福田三郎の、
「実録上野動物園」を原作に、
猛獣殺処分を、描いた漫画作品もある。



この「トンキー物語」

「27頭のあいつたちの巻」


映画「「子象物語 地上に降りた天使」


「かわいそうなゾウ」


「ゾウとおじさん」



この5つの作品には、
共通点が、2つある。


1つめ、


どの作品も、戦時下の、
上野動物園を舞台、
もしくは、モデルに
しているという事である。


子象物語と、ゾウとおじさんは、
厳密にいうと、創作作品なので、
特定の物は無いのが、
正式なのかもしれないが、


上野動物園のゾウたちの事が、
モデルの中に、含まれていると、
私は、考える。


2つめ、


1を前提としたうえで、
この全ての作品が、


ある共通した間違いを犯している。



それは何か?



猛獣殺処分が、


”軍の命令により行われた”



この点で、共通した間違いを犯している。



また、少し先の事を書いて申し訳ないが、
猛獣殺処分、猛獣処分といった事は、
この後、全国的の動物園で行われるようになる。


猛獣殺処分が、法律として制定されて
行われたというわけではない。


あくまで、行政だったり、動物園だったりが、
万が一に備えて、行った物である。
軍や行政からのプレッシャーが、
動物園にかけられての、うえだろうとは思うが。


中には、京都市動物園のように、
以前、この動物園に動物を寄付した、
第16団の参謀長が、
皮肉にも、猛獣殺処分の命令を下した例
や、


名古屋市、東山動物園でも、
当時の佐藤正俊市長から、
軍の要請があるので、
猛獣を何頭か処分しろ


という指示書が、当時の北王園長が、
要請に応じて、何頭か処分している。


これらのように、軍の指示や深い関与のもと、
猛獣たちが処分された、動物園は確かにあった。


さて、上野動物園においては、
誰が、猛獣殺処分を命令したのか?


ここまで、この回に、
お付き合い頂いている、
読者のみなさまには、
既に、ご覧頂いて、
ご存知のはずだ。




軍の命令ではなく、



大達東京都長官の、


  命令であった事を。




この命令した者について、
正しく記述している本がある。


それがこの本だ。





「ゾウのいない動物園」である。


ただ、ジョン・トンキー・ワンリーが、
ジョン・トンキー・”花子”
なっている点や、その他にも、
時系列で、気になる点など、
色々とある一冊だが。



もう一冊ある。
それが、この本だ。






「わたしの見た

  かわいそうなゾウ」(今人舎)



著者は、

澤田喜子(さわだよしこ)  (1918-2004)


澤田は、昭和15年~昭和57年まで、
戦前~戦中~戦後まで、長い間、
上野動物園の職員として、働いた人物だ。


実際に上野動物園にいた、
澤田ならではでしか、書けない所がほとんどで、
大変、素晴らしい価値のある本である。


さて、ここまで遠回りしてまで、
色々な作品で、間違えられていた点を、
ここで紹介したのは、



改めて、猛獣殺処分を命令したのは誰か?



これを、みなさまに再認識して
頂きたかったので、
このように、色々と寄り道をした。


追究といいつつ、
だいぶスペースを頂いてしまい、
みなさまに、ご負担をかけた事を、素直に詫びる。


本題の追究に戻る。


大達東京都長官の真意とは?
ヒントとなる言葉が、
古賀が、後年に語った言葉にあった。


1962年~65年まで、古賀は、

「動物とわたし」なるエッセーを、
上野の月刊タウン誌「うえの」に連載していた。


「後に聞いた事・・・」

「大達さんには・・・わかっていたのでしょう。」

「痛感したのでしょう・・」


など、心苦しさを伝えながらも、
1965年2月号において、
猛獣殺処分の事を、語っている。


長めだが、引用して紹介する。
なお、ーが、最初と最後にあるが、
紛らわしいので、空白と 。に、こちらで変更した。
古賀のものだと、”公園部長”となっているが、
そのままにした。



 八月半ばのことでした。私は東京都の公園部長に呼ばれましたので、
急遽行ってみると、当時園長代理をしていた福田三郎さんも一緒でした。
そして今度、都長官の命令で、猛獣を処分することに決定したから、
了承してくれとのことでした。



私はその時、ああ、いよいよ来るものが来たと感じました。
このことに至るまでに、都の主脳部(原文のママ)としては、
相当議論もされたようでした。


私たちは、その決定に対して、
ただうなだれるよりほかはありませんでした。



これは後に聞いたことでしたが、その頃はまだ国民は、
みんな戦争には勝っていると思っていたのです。
しかし、都長官になる前に、シンガポール、
つまり昭南市長をやっていた大達さんには、
もうほんとうの戦況がわかっていたのでしょう。



 東京都長官になって内地に帰って国民の様子を見て、
これではいかん、戦争はそんななまやさしいものではないのだ、
ということを、国民に自覚させねばならないということを
痛感したのでしょう。そして大達さんは、
それを言葉で言い表わすのではなくて、
動物園の猛獣を処分するということにより、
国民に警告を発するという方法を取ったのでした。



 それだから、草食獣であるゾウなどは、田舎に疎開させたら
菜や草で生きられるのだからという意見もあったようですが、
動物を処分するのが、目的ではなかった大達さんは頑として、
それを許さなかったとのことでした。

引用元 月刊タウン誌「うえの」 1965年2月号より抜粋  (47NEWS様サイト内



さらに、都の公式資料「都政十年史」にも、
このような記述がある。
引用して、紹介しよう。



猛獣を殺してしまえという結論に至るには、
空襲の際の危険ということのほかに、


都民に一種のショックを与えて
防空態勢に本腰を入れさせようという意図も
相当大きく動いていたことを見逃すことができない・・・

引用元 「都政十年史」より  (47NEWS様サイト内) 



2020年8月25日付の、47NWSの記事で、
編集部の佐々木央記者(共同通信社)は、


大達と古賀が、共にシンガポールにいた事
さらに、2人とも”囲碁好き”であった事に注目、


シンガポール時代に、碁盤を挟んで、
事前に、猛獣殺処分について、
何かしら、話し合っていたのではないか?
という、注目すべき持論を展開している。


私も、その可能性はあったと思う。
国民に、現在の状況を自覚させるという、
エリート官僚街道を、
まっしぐらに突き進んできた、
彼の使命感に、よるものであろうと思う。


シンガポールで、自身が見てきた
戦況の悪化と、帰国して見た、
国民の、戦争に対する姿勢・様子。


その落差から、国民にショックを与え、
戦時の危機意識を高める狙いが、
あったと考えるのが、普通であろうと思う。


B29による、空襲が激化するのは、
1944年(昭和19年)6月から
だと、
言われている。


これは、この頃、
米軍が、日本統治下であった、
マリアナ諸島を占領した事で、


B29の、日本本土への爆撃が、
より頻繁に、効率良く、
行えるようになったためだ。


これで、大達東京都長官の、
猛獣殺処分の真意が、
分かる材料が、そろったといえる。


彼の国民に対する、
戦時における、危機意識の、
欠如に対する警鐘の為に、


ハチをはじめとする、
上野動物園の猛獣たちの、
命の灯が、まさに消されようとしていた・・・


大達東京都長官の、頭の中には、
猛獣たちの命を考える、助けるという選択肢は、
この時点では、一切ないと言い切っていいだろう・・・





福田は、どうやって自分が
動物園まで帰って来たか、
覚えてないほど、
頭の中が、真っ白になっていた。


古賀が別れに、

「福田くん・・・すまない。
  君に、全てを任せてしまって・・

   ・・・・よろしく頼む・・すまん。」


そう言って、古賀が頭を下げて、
その寂しさあふれる背中を、
見送った事だけは、覚えている・・。、


園についた頃には、
夕方になり、小雨が降っていた。


気がつくと、20年以上
欠かす事なく続けていた、
動物たちへの、見回りをしていた。


傘もささずに、無意識のまま、
日々の日課を、こなしていた。


ジョン・トンキ・ワンリーたち、
ゾウのみならず、
ライオン・ヒョウなど猛獣たち、
さらに、カバまでも、
福田が来ると、みんな寄って来た。


福田の足音がすると、
動物たちは、みんな分かっていた。
多くの動物たちが、福田を好きなのだ。


ふと、遠くに目をやると、
猛獣担当の、飼育員の一人が、
肉と牛乳を運んでいる。


毎日、朝と夕方には、
猛獣たちに、
肉と牛乳を与えている。


ただ、戦時下の食糧不足で、
毎日とは、いかなくなっていたが・・・


福田は、気が付くと
涙を流していた。


福田「彼らは・・・

   我が子同然のように育てていた、


   かわいい猛獣たちに、

   明日からは、

   ああして、毒薬を運ばなくては・・

   殺すために、毒薬を運ばなくては・・・

   ならなくては、ならんのだ・・・。」



福田は、飼育員に背を向けるように
くるりと、反対を向いた。



福田「それを、私が明日・・・


   明日、命じなければならないのだ!」




福田は、雨降る空を見上げた。



福田「彼らに、猛獣たちを、


   殺せと、命じなければならないのだ!


   そんな事・・・私に・・・


   ・・・・出来るわけないだろう・・・」

   


むろん、この戦時下において、
下された命令に、逆らえる事など、出来ない事は、
福田は、充分にわかっていた。



福田「国民の安全のために、
   上野動物園園長代理としては、
   この命令に従いましょう・・

   しかし、人間、福田三郎としては、
   動物たちを殺した動物園長代理と、
   飼育員たちという、
   
   我々が、この世から消えた、
   何十年先でも、背負わされる汚名を
   背負わせた、大達都長官の事を、

   
   誰かが下さねばならぬ命令だとは、
   わかっていても・・・・

   わかっていても・・・

   生涯、あなたを許す事は出来ない!」



福田は、先より激しくなった雨音に向かって、
心の奥底にある、己の本心を、
絶叫にも近い感じで、
叫んだのであった。


もうろうとしながら、
園内を歩いていた福田。


気が付くと、ハチの檻の前にいた・・・


福田「ハチ・・・・・」


福田が、檻に近づくと、
ハチが、いつものように、
福田に近づいて来た。


その人懐っこい表情で、
その透き通った瞳で、
大好きな福田を、みつめている。


ハチは、福田が好きだ。
上野動物園に来て、
福田だけじゃない、
普段、自分の面倒をみてくれる、


担当の飼育員たちも、
あの兵舎にいた、
成岡や、隊員達と同じように
好きになっていた。



福田「ハチ・・・

   すまん・・・・。

   お前を・・・

   殺さねばならなくなった・・・」



雨で、ずぶ濡れの福田は、
ハチの透き通る瞳を
見つめながら、
声にならない声で、弱々しく詫びた。



福田「成岡さんたちが、
   お前に、幸せになって欲しくて、
   上野動物園に、
   送ってくれたのに・・・。

   もう、いなくなってしまった、
   お前に会いに・・・

   小隊長どのが・・成岡さんが・・・

   ここに、訪ねてきたら・・・

   その時、私はどう詫びればいいんだ・・」



ハチは、福田が、
いつもと違う様子なので、
首をかしげていた。



福田「ハチ・・・成岡さん・・・


   許してくれ!」




そう叫ぶと、福田はハチに背を向け、
激しい雨の中へと、消えて行った・・・


   



福田が、猛獣殺処分の命令を下されてから後、
とある日の、上野動物園・・・
(正確な日時は不明)、



ある朝、澤田喜子が、
売札所に向かって歩いていると、

(売札所=札を出す場所、切符売り場)


飼育係の一人から、

「菅谷さんが待っているから、

  ゾウ舎に、早く行くといいよ!」

(菅谷=ゾウ担当の飼育係)


と言われて、行ってみると、
菅谷が、ゾウのトンキーとワンリーを
園内に出している所だった。


二頭は、いつもと変わらず、
鼻をのんびりと、揺らしながら、
歩き回っていた。


澤田「菅谷さん!おはようございます。」


菅谷「おはよう。」


菅谷は、少し下を向きながら、


菅谷「トンキーも、ワンリーも、
   もう、みんなに会えなくなるかもしれないから、

   記念に、写真を撮影しようと思って。」


澤田「じゃあ、ゾウを疎開させるんですね?」


菅谷「・・・それが出来れば・・・いいんだけど。」


菅谷は、黙ってしまった。


沈黙の時間が少し過ぎると、
女子職員が、2,3人、
走って来た。

菅谷は、彼女たちに向かって、


菅谷「集まったね。
   
   よーし!

   じゃあ、みんな!

   ゾウの前に、並んでー!

   撮るよー!」

  


それが、この時の写真である。





引用画像元 澤田喜子(著)「私の見た かわいそうなぞう」(表紙より)今人舎 


(#左から、3人目が著者の、澤田喜子氏)



これが、トンキーとワンリーの、


最後の写真となった・・・





<第11回へつづく・・・>





「読者のみなさまへ」


本作品は、
実話を基にしていますが、
会話など脚色を加えてあります。

また、いつもと違い、
連載形式なので、
その都度で、明記する時もありますが、
作品の内容を、順番にお知り頂きたいので、
最終回に、参考文献や参考サイト様など、
まとめて明記したいと思っております。
ご了承下さいませ。





(あとがき)


下書きの日付を見ると、
10月15日。


完成までに、1か月を要しました。

1話を始めた時から、
この回を、どう書けばよいのか、
迷っていました。


書き始めが、全然定まらない。

何度も、書いては消しを繰り返し、
今回のような、形になりました。


やっと始められたが、
どう展開していいのかも悩み、

新たなる資料を読み、従来の資料を見返し、
新しい本、今までの本の読み直し、


毎日、気が持たないので、
他の作品も書きましたが、
空いている時間は、
全て、この第10回につぎ込んで来ました。


noteを始めた時、慣れてきたら、
もう一つ先の活動もしてみたいと、思っていましたが、
自分自身に、その資格がまだ無いと思い、


自分にとって、一番高いハードルでもあります、
宿命的な「猛獣殺処分」の、テーマに挑むため、
ハチと成岡さんの物語を選びました。


あとでまた、詳しくは話す機会もあると思いますが、
これが完成出来たら、その資格ありやと、
自分自身が納得でき、ゴーサインを出そうと、
こうして始めたのが、「オレの相棒(あいぼう)」です。


この1か月は、坂本猫馬が、
坂本猫馬を超えるために、
本物に近づけるか、遠のくか、

己自身との真剣勝負で、
”のるかそるか”の、毎日でした。


ようやく、まだ半分ですが、
完成して、こうしてみなさまに、
ご覧頂ける事が出来て、
ホッと、しております。


当初は、この回で、次の回の事まで、
書くつもりでしたが、
色々と、新しい資料や本との出会い、
今までの、資料や本から見落としていた点
などありまして、大長編になってしまいました。


ご覧頂いたみなさまを、
大長編だったので、
疲れさせてしまって、
申し訳ないと思います。


次回から、ラストまでも、
長めになる事と、思いますが、
お許しいただけたら、幸いです。


少し、余談になりますが、


何よりうれしいのは、
11月15日という、
私にとって、
特別な日に、公開出来たという事です。


諸説あり、違うと申される人もいると思いますが、
私は、この11月15日を、
尊敬するようになった中学生の頃より、
我が”遥かなる人”の、誕生日と命日と位置付けて、
特別な日としています。


今日も、家に飾ってある、
大きな”遥かなる人”の、
写真の前で、毎年恒例の、
酒を酌み交わした所です。


50近くになっても、まだまだ追いつけない、
我が敬愛する、遥かなる人の、大きな背中。
残された生涯を、彼の様に駆け抜けて散りたいものです。


この特別な日に、ひと月がかりで、ようやく完成した、
この第10回が公開出来て、感無量です。


余談が過ぎましたね。
それでは、またお時間を頂くと思いますが、
出来たら、年内に最後まで書ければなと
思っております。


まずは、第11回。
こちらに、全力を傾けたいと思います。


それでは、最後までご覧下さり、
本当に、ありがとうございました。


また、第11回でお会いしましょう!


さようなら!


また、長くなっちゃうけどゴメンネ!






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坂本猫馬
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