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  『人生』  作:夏目漱石 

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Ai現代翻訳の参考原作:青空文庫 図書カード:人生


概要説明

夏目漱石の随筆「人生」は、人生というテーマを哲学的かつ多角的に考察した作品です。漱石は、人生を事物の移り変わりと心の関係性の中にある現象として定義し、その複雑さや多様性、そして予測不能な本質を深く掘り下げています。

本作では、人生の多様な側面を小説と対比しながら、時に論理では説明しきれない「不可思議」や「狂気」と呼ばれる人間の行動について語ります。また、自然災害に例えられるような外部からの影響と、心の奥底から突如湧き上がる内面的な変化の二つを通じて、人生の不可測性を描き出しています。

漱石が問いかけるのは、人生とは何か、そして人間とはどのような存在なのかという普遍的なテーマです。理性や論理を超えたところにある「人間の本質」を静かに見つめ直すこの随筆は、私たちが日々の生活で忘れがちな人生の核心に触れる、重要なヒントを与えてくれます。


1章:人生の定義と複雑性

 空間に形を持つものを「物」と呼び、時間の流れに沿って現れる現象を「事」と呼びます。物と心は切り離せず、心もまた物を離れて存在することはありません。このため、物事の変化や移り変わりを「人生」と呼ぶのです。これを例えるなら、鹿の体や牛の尾、馬の蹄を集めて「麒麟」と名付けるようなものです。
 
 こうしたこうした定義を考えると、少し難しく感じるかもしれません。しかし、これをわかりやすく言い換えると、人生とはまず地震や雷、火事、そして親父の怖さを知ることです。そして、砂糖と塩の違いを覚え、恋愛の重さや義理のしがらみに縛られることを学びます。そのうえで、順境と逆境を体験し、幸運と不運という二つの門をくぐること――これが人生の意味だと言えます。

 ですが、これだけでは人生の全体像を表現することはできません。人生とは、百人百様、千人千色。それぞれが千差万別の生涯を持つものです。たとえば、平穏な人生を送る人は、昼の鐘を聞いて昼食をとりながら日々を楽しみます。一方、忙しい人は落ち着いて座ることすらできません。変化に富んだ人生を送る人は予想外の出来事に見舞われ、不平を抱く人は孤独に詩を吟じる。頑固な人は山にこもり、余生を静かに過ごします。また、世間を冷ややかに見つめ、茶化すように生きる人や、気ままに暮らし、法を恐れない図太い人もいます。このような人生を一つひとつ数え上げていけば、いくら時間があっても足りないほどです。それほど人生は複雑で多様なのです。

 さらに、個人が行う一つひとつの行動も、それぞれの動機や影響が異なります。たとえば「人を殺す」という行為一つをとっても、毒を盛ることと刀を振るうことはまったく違います。また、意図して行う場合と偶然の結果では受け止め方も異なるでしょう。このように行動を分類するだけでも大変な手間がかかります。それに加えて、国ごとの言葉の違いや、身分の差があれば、同じ事柄も異なる表現や記号で語られます。これらすべてを比較するのは、非常に困難なことです。

 たとえば、皇帝が亡くなることを「崩御」と言いますが、庶民の場合は「死ぬ」、魚なら「上がる」、鳥なら「落ちる」と表現されます。しかし、それらすべてが示す「死」という事実自体は一つでしかありません。このように、もし人生を細かく分けて解析できるのであれば、天の星や海辺の砂の数を数えることさえ、容易に思えるでしょう。

2章:人生と小説の関係

小説は、この複雑で多様な人生の一側面を写し取るものです。しかし、その一側面ですら単純ではありません。それでも、小説が深く本質を描き出すとき、人生の紛糾した現象をまとめ上げ、一つの哲学的な真理を示すことができます。

たとえば、「エリオット」の小説を読むと、生まれつきの悪人がいないことがわかります。そして、罪を犯した人々が赦されるべきであり、さらに哀れむべき存在であることも理解できます。また、人の何気ない行動一つひとつが、運命に大きな影響を与えることにも気づきます。

一方、「サッカレー」の小説では、正直者がいかに滑稽であるかを学び、ずる賢い者や奸佞な人物が世間で珍重されることを知ります。「ブロンテ」の小説からは、人と人との感情のつながりがいかに大切であるかを学ぶことができます。

小説には、境遇を描くものもあれば、人物の品性を写し出すものもあります。また、人の心理を解剖しようと試みるものや、直感的に人生を見通すものもあります。それぞれの小説が異なる視点から人生を教えてくれるのです。

しかし、人生は心理的な分析によって終わるものではありません。また、直感によってすべてを見通すことができるものでもありません。私は、人生にはこれら以外に、一種の不可思議な要素があると信じています。


3章:人生の不可思議と狂気

いわゆる「不可思議」とは、奇怪な出来事や幻想的な存在を指すのではありません。それは、「カッスル・オブ・オトラント」の中に出てくる出来事でもなく、「タム・オシャンター」に登場する妖怪でもありません。また、「マクベス」の劇中に現れる幽霊や、「ホーソーン」の文章や「コールリッジ」の詩に描かれる人物を指しているわけでもありません。

私たちが普通に手を振ったり、目を動かしたりする。それなのに、なぜ自分がそうするのか理由がわからないことがある。そうした行為が、因果律を無視して自分の意思を離れ、突然起こる。まるで急な突風のように――。これこそが、私が言う「不可思議」なのです。

世間では、これを「狂気」と呼びます。この呼び名そのものに異論はありません。しかし、この種の行動をすべて「狂気」として片付ける人たちは、他人に対して「狂気」という不敬なレッテルを貼る前に、自分自身もかつて「狂気」に囚われた経験があるのではないか、と自問すべきです。そして、人間は誰しもがいつでも「狂気」に陥る可能性を持つ存在であることを認識する必要があります。

物事の当事者となった人は迷い、傍観者はその様子を笑います。しかし、傍観者が必ずしもその物事を深く理解しているわけではありません。「自分を知る」という明確な意識を持っている人は非常に少ないのです。私は、人間が自分を完全に理解することはできないと断言します。

4章:天災と人間の行動の比較

三陸地方の津波や濃尾地方の地震は、一般に「天災」と呼ばれます。天災とは、人間の力ではどうすることもできないものです。一方で、人間の行動は良心の制約を受け、意思によってコントロールされるべきものです。そのため、どんな小さな行動でも責任を伴います。ですから、洪水や飢饉といった自然災害と、人間の行動を同列に語ることはできません。

しかし、良心は常に私たちの行動を支配しているわけではありません。四肢が必ずしも意思の通りに動かないように、私たちの行動も時として意思を離れて動いてしまうことがあります。一度の変化が突如として訪れると、私たちは自己を見失い、暗闇の中で跳ね回るような盲目的な動きをすることがあります。その時、秩序も系統も失われ、理性や分別を欠いたまま行動することになります。

例えば、かつて平家軍が富士川で水鳥の羽音に驚き、一矢も放たずに敗走したという話があります。この出来事を現代人は「馬鹿馬鹿しい」と思うでしょう。しかし、翌日には当事者たちもおそらく同じように感じたに違いありません。彼らはその夜だけ、急に臆病風に吹かれたのです。この臆病風は、まるで自然現象のように突然吹き始め、夜が明ける頃には静かに収まってしまいました。この風がどこから来て、どこへ行ったのか――それを知る者は誰もいません。


最終章:人生の不可測性と謎

人生は、一つの理論や論理でまとめ上げることができるものではありません。それと同様に、小説も一つの理屈を示すに過ぎません。まるで数学の「サイン」や「コサイン」を使って三角形の高さを測るように、人生という存在を完全に測ることは不可能です。

私たちの心の中には、底なしの三角形や、二辺が並行している三角形といった不可解な形が潜んでいます。これをどう扱えばよいのか――答えを見つけるのは容易ではありません。もし人生を数学的に説明できるならば、人生はもっと便利でわかりやすいものになっていたでしょうし、人間はもっと立派な存在になっていたでしょう。

しかし現実には、予測不能な変化が外部から突然起こり、心の奥底から思いがけない感情が容赦なく、時には乱暴に湧き上がります。それは、まるで三陸の津波や濃尾の地震のように、外部の出来事だけでなく、私たち自身の内側から突如として発生するのです。

こうした内的な「災害」に対処しきれない私たちは、人生の険しさや危険に直面します。それこそが、人生の本質的な謎であり、私たちが解き明かすべき課題なのです。


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