子供はリストラしないが社員は簡単にリストラ。もう少し職場を家族的に。
子供はリストラできない。「ちょっとパパの部屋に来てくれるか。。。明日から家を出てってもらいたいんだ。もちろん強制じゃないよ。相談なんだ。残念で私の本意ではないのだけどリストラになってしまったんだ。家計が苦しいから。合意してもらえると、他の家族のためになるんだ。消耗品費(食費、文具代)や光熱費、交通費(通学費)、研究開発費(学費)が安くなりるからね。出る前に渡せるお小遣いの額はがんばってプラスできるようにするから。。。」
とはおバカな話ですね。こんなことはありえないですね。家計が苦しくても踏ん張ります。逃げ出せることではない。放り出せることではない。
でも、職場の仲間は簡単にリストラできる。簡単に。疑問は微塵もない。
職場も、家族のような、切ることのできない感情的で強い「信頼」関係であっても良いのでは、と思うのです。もう少しだけでも。。。
が、そんなことは不可能だし、そんなことを誰も望んでいない、と言われる。「下」の立場の人たち/フォロワーだって、こんなこと望んでいないよ、と多くが反対。疲れるよ、そんな関係の方が。割り切りが必要、と。
でも、こんな良質な(?)関係性が表現されるドラマや映画を見ると、いい話だったなぁ、と共感する。でも、現実とは違うから映画を見て感動するのでしょうかね。現実と違うからいいのかな。。。
家族では、ママもパパも子供たちも、おばあちゃん、おじいちゃんも不完全で、癖があり、抜けている、と互いにわかっている。でも、ひとなんてそんなもの。良い悪いではない。そして、ちょっとした失敗が家族の笑いに。寛容。
職場では、人間なんてどこまで行っても未熟で不完全で不合理なのに、ミスの無い完全性を求められる。失敗すると批判される。欠点ある部下は排除したくなる。厳格。
家族では、親や祖父母、お兄ちゃん、お姉ちゃんが、年少を指導する。強くやさしく人格的に成長してもらいたいから。能力ある一方が他方を引き上げる。人の値打ちは能力ではない。個性、存在。
職場では、能力あるリーダーはフォロワーを使うだけ。なんでできないんだ!と批判し、自らの能力を伝授しない。成長させるためにチカラ・時間は注がない。人の値打ちは能力のみ。そして現状での十分な能力を求める。
ロバート・フロスト(アメリカでとっても著名な詩人。もう亡くなられています)の詩にこんなのがあります。
「家とは、ひとがそこに行かねばならなくなったとき、そこの者たちがそのひとを迎え入れなければならぬ場所。~。それに見合う値打ちがなくても、いることができるところ」
家は、家族は、どんな未熟な、お騒がせさんだったり、厄介者であっても、受け入れます。受け入れねばと思います。
職場はこうならないですね。厄介者は受け入れるどころか、クビにしたくてたまらない。給料で関係を結んでいるプロとプロだからかしら? 家族でその責任を果たしているから、職場ではもっと無責任な、感情のない、役割と機能の関係の方がラクだからか? 社員はお金のための機械だからか?
でも、
どうして職場ではもう少し家族的な関係性を構築しないんだろう?
どうして家族的だとお金は稼げないと思うのだろう?
同じくロバート・フロストの詩にこんなのもあります。最も有名でしょうか。この詩が、アメリカ人をアメリカ人にしている、とも言えます。
「森の中で道が二手に分かれていた、私は(悩んだが)、私は、人が通っていない道を選んだ。そしてそれが、大きな違いを生んだ」
常識とは違う道を進んでも、ひととは違う仮説を追求しても、いいですね。リーダー次第です。それが大きな成功につながるかもしれません。
お読み頂きありがとうございます。
(v9_43)