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自分という「機械」を改良できるメカニックになろう。思い通りの人生のため。

大人になってわかったこと。自分って自分なんだけど自分ではない。勝手に感情が湧き上がる、勝手に好き嫌いを決める、などなど。

自分では制御できないけど自分が感じる。暑いやら寒いやら。可愛いいあの子にはドキドキ、この子には何も感じない。ある状況に緊張し不安になったり怖くなったり。あるいは、つまらないギャグを自分だけ面白く感じたり。

どうして自分が寒がりで、どうして自分がこの映画やこの本やこんな女性が好きなのか、理由はわからない。


遺伝なのか、DNAなのか。もちろん影響する。

背が高いひとと背が低いひとでは、世の中を見る目が違うはず。例えば、恐怖感、窮屈感、挑戦心などが違ってくるだろう。

環境だってもちろん影響する。日本人の両親から生まれてもアメリカで育てばアメリカ文化寄りになる。サルやオオカミに育てられた少年少女の希有な事例では、まさにサルやオオカミのように歩き、生肉をたべ、衣服を嫌い、会話はできず吠えるのみ。ワォーン。

病気だって制御不能。生育・生活環境の影響もあれば、遺伝的な要因もある。どうして白血球が少ないのか、口内炎がいつもできるのか。薬が効きやすい人もいれば効きにくい人もいる。原因不明。自分のことだけれど、自分では制御できない。


マーク・トウェインは「人間とは何か」(中野好夫訳、岩波書店)で、人間は機械だ、と言う。自分の意志などなく自動操作されている。

「人間即機械 ー 人間が何かってことは、すべてそのつくりと、そしてまた、遺伝性、生息地、交際関係等々、その上にもたらされる外的力の結果なんだな。つまり、外的諸力によって動かされ、導かれ、そして強制的に左右されるわけだよ ー 完全にね。みずから創り出すものなんて、なにもない。考えること一つにしてからだな」

「心って奴、自身を左右する力すらもってないんだな。- ただ外部から動かされて作用(はたら)くんだから。つまり、それが心ってものの構造法則、言葉をかえていえば、一切機械の法則なんだな」


マーク・トウェインは晩年の人間の利己的な部分、理想と現実のギャップを憂い、かなり悲観的なトーンで批判をしていたのだと思うのだが、ま、そのメッセージは置いておいて、「機械」というところに着目したい。

自分は自分でない、と思ってしまう、ということは、言い換えれば、つまり「機械」の反応を理解していない、ということなのだ。規則的に動いているのだが、なんでそうなるか自分が知らない。勝手に反応していると思っている。この「機械」を理解できていないからだ。

つまり、運転免許はあって運転している「運転手」だが、「メカニック」ではない。だから、メカ的・構造的な知識、そしてそれを直す技能はないのだ。だから自分のカラダの反応や思考の反応を制御できていないと思い、自分で自分にビックリ。。。

なんでパンクしたの? なんでエンジンがキレたの? なんでランプが点かないの? 


ということで、「自分」が「運転」する「自分」という「機械」の「メカニック」にならなければ!!! そう思うのだ。

今ある「機械」を一歩一歩マイナーチェンジしていくのだ。自分は、このボタンを押せばこう反応する、ここが切れたら、この反応が生じない、などなど、一歩一歩、人生をかけて理解し、自分を自分の思うように動かせるよう、メカニックになって、自分という機械を改良していくのだ。

「なんでこうなるの自分って?」と思ったときがチャンス。そのまま不思議に思うだけで放置せずに、その原因をさぐるのだ。あるいは、原因がわからなくても、自分が望むように制御するにはどうしたらいいのか、を考えるのだ。改良(行動)してみるのだ。

ということで、メカニックになろう。自分に対するハイスペックなメカニックになる道が人生なのでしょう。


読んで頂きましてありがとうございます。
(v8_94)



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