「目指したい自分」を定義して「ありのままの自分」を作ろう?!(ベターアイデア? v3-15)
昔、仲間と会社を作って、経営していた時、ある先輩からこう言われた。
「経営者の一員になったのか。」
「あ、はい。」
「経営者はね、多重人格でないと、務まらないよ。ある時はにこにこしながら裏で画策し、ある時は黒をグレーにしたり、法律すれすれを狙い、ある時は部下をおだてて無理難題に動かし、ある時は痛烈に批判しでしゃばらないようにし、本音とウソを巧みに使い、クビにするときはクビにする、とかね。」
「あ、そうですかね。。。」
「ジキルとハイドだな。」
「あ、そうですかね。。。」
心の中では、全くもって大反対。そんなわけがない。少なくともボクはそんな経営はしないぃい。それに、この方の説明が変にも思えた。「多重人格」とそれが意味する具体的な例示が「多重人格」と関係無い。こんなのハイドだけじゃないのぅ?!
リーダーは、部下や仲間に思いやりがあり、誠実で、正直で、弱く、愛があり、高潔で、前向きで、明るく、笑顔で、自信があり、情熱があり、挑戦心があり、失敗もする、忍耐力があって諦めず、責任感が強く、利他主義で、ビジョンを信じ、実現を心から目指している。
これは多重人格? そうならそう。そうでないならそうじゃない、ですね。
この方が言うようなリーダーはくだらない、と思います。そしてこうなるのは簡単です。「ある時はにこにこしながら裏で画策し、ある時は黒をグレーにしたり、法律すれすれを狙い、ある時は部下をおだてて無理難題に動かし、ある時は痛烈に批判しでしゃばらないようにし、本音とウソを巧みに使い、クビにするときはクビにする」なんて、そんなのある意味、ぜんぜん簡単だ。ズルくなればすぐできる。そんな低レベルな人間/リーダーに陥るのなんて非常に簡単。
そうではなくて、「上手く行かなくても、失敗しても、部下を信じ、未来と自分も信じ、愚直に、諦めずに、笑顔で、前向きに、法律違反や騙したり裏切ったりせず高潔を維持し、情熱を持って挑戦しつづける」なんて方が断然、断然、難しい。この難しさに挑戦するのが経営じゃないのかしら?
「多重人格たれ」・「ジキルとハイドたれ」というのは、幼稚な、くだらない、レベルの低い、品の無い、見当違いに思います。こういうアドバイスは不要ですぅ、そう思った。そうではなくて、「リーダーこそ高潔であり、部下・仲間を大切にしろ。クビにしたくなっても自己責任と思って成長させろ。苦難があっても、法律違反はするな。夢を諦めるな。簡単に実現できないからこそ夢なんだ。」とかとかをアドバイスして欲しい。
で、こんな昔話を思い出したのは、メンターの先輩(上記の方とは違う)からお歳暮で頂いた本を最近、読んでいたら以下の記載があったから。
「かように私たちの自己は、他者との物語が交わるなかで輪郭が描かれ、それぞれのストーリーによって柔軟に形を変えていきます。それもこれも自己が絶対的な存在ではなく、物語のすき間に一時的に現れる虚構だからです。」
「いかに本当に自分を追い求めようが、私たちがどのような人間かは周囲の物語によってコンスタントに変わりますし、そもそも自己の感覚そのものが物語と物語の間に生まれる架空の概念でしかありません。ドーナツの穴を食べることができないように、ありのままの自分を探すのもまた不可能なのです。」(「無=最高の状態」、鈴木祐 著、クロスメディア・パブリッシング)
納得です。会社の自分と家での自分、男性友達と一緒の時の自分と女性友達との自分、先輩との自分と後輩との自分。そりゃ、違います。友人多数の時の自分と知らないひと多数のときの自分。そりゃ、違います。言葉遣いも、正直さも、本音を言うか社交辞令を言うかも、心からニコニコしているか、作り笑いをしているか、自分を主張するか、聞くだけにとどめるか。そりゃ、違います。
別の小話。心理テストをあるグループに受けさせた。で、当然、テストの回答はひとそれぞれ。で、「あなたはこんな性格です」が記載された分析結果を皆に渡すと、なるほど、なるほど、確かに自分はそうだ、と多くの人が納得。レベルの高いちゃんとした心理テストだったのですかね。で、オチは「あなたはこんな性格です」の分析結果に記載された内容は、全員同じだった、とのこと。つまり、自分って色んな面があるから、何らかの性格を指摘されても、”だいたいそうね。そんな面、確かにあるね” に皆がなる、ということ。
色んな自分がいる。確かにそう。誰と一緒か、自分の今の役割は何か、などの文脈によって自分が変わる。俳優・役者のよう。「ありのままの自分」はいない。そう思います。当然ですかしらね。色んな自分がいて、「ありのままの自分」は状況による。
さらには、ある文脈を自分で理解して、こういう役割を演じようと思い演じるけど、そもそも文脈を間違って認識しているかもしれないし、正しく認識しても、演技が下手かもだし、結果、歪曲されて他人に伝わっているかもしれない。こうなったら、もう、「自分」が思って演じた「自分」を、そういう「自分」と周囲は思ってくれないかもだし、そういう「自分」と思ってくれる周囲もいるかもだけど、その演技された「自分」をどう評価するかも千差万別だったりして。なので、自分でも、他人からも、もはやよく分らない「自分」になってしまいます。
問題は、こういうありのままが無くてころころ変わる自分が、演技する自分が、どうしても疲れてしまうのです。とても疲れるのです。ありのままの自分がいなくて、あっちではこういう自分、こっちではこういう自分。自分で自分をそうさせているのだけど、流されているような気がして、とても疲れる。。。できたら、心地良くありたい自分でいたい。やりたくない演技はしたくない。
だから、自分は今がどうとかではなくて、「どうありたいか」を確固として持つべき、だと思うのです。色んな文脈の中で、今はついこういう演技をしてしまうが、本当はこうありたい、を明確にして、それをがんばる。色んな文脈で共通でもいいし、ケースバイケースかもしれないけど。「自分はこうありたい」を宣言するんです。コメディでもサスペンスでもミュージカルでもSFでも、ジェームスボンドでいます、みたいな。あるいはキムタク的な?
今は「人見知り」だけど、「いつでもどこでも社交性あるひとになりたい」を決めて、宣言して、コミュニケーションする、とか。今は「年配のひとや組織では謙虚で礼儀正し過ぎで何も話せない」けど、「自信を持って自分の考えを主張できるひとになりたい」を伝えて、主張してみる、とか。
こうありたい自分にすぐになれる訳ではなく、それもストレスなのですが、過去の経験を前提に自分が勝手に演じる自分よりはストレスが無いように思うのです。
今日のベターアイデア:
自分って、色んな自分がいて、「ドーナツの穴を食べることができないように、ありのままの自分を探すのもまた不可能」はその通り。ありのままの自分は、時と場合により変化するもの。これがストレス。だけど、「自分はこうありたい」を定義したら、それは変わらないですね。自分が定義したのだから。時と場合によっても定義は変わらない。将来、また自分の気持ちが変わって、定義し直すことはあっても。だから、「自分はこうありたい」を明確にして、そうなろうとしていますと宣言し、その自分に近づけていく。こっちの方がストレスはない。ドーナツに穴はないけど、チョコレートでコーティングすることはできる。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?