歌詞考察「Let's fighting love」(サウスパークより)
こんばんは。今日もお疲れ様です。すみすです。
今回の記事は至極マジメな考察記事。
いつもより文体のテンションが異なる場合がございます。
あらかじめご了承ください。
本記事で考察対象となるのは言わずと知れた「Let's fighting love」
曲はこちらより”https://youtu.be/C7Ebfe9p_U0?si=_Lcj6P_gnyVGxmCH”
緊迫感のひしめくイントロからこのボブ・ディランを彷彿させなくもない牧羊的作詞センスが綴られていく。
一文目は文字通り読み解いても問題はないだろう。
作詞者は何かを見た。
なにを見たのかと、くどくどしく説明するまでもない。
それは素晴らしいチンチンものなのである。
やがて徐々にピントが合うよう、視界を広げていくかのように、その詳細が語られる。
毛という字に『かみ』というルビを振ることにより、我々が抱いている髪という概念に一石を投じた。
金玉にあるものが髪であるものならば、我々の頭に生えているのは毛なのだ。
こうして毛に『髪』というルビを振ることで、立場は逆転する。
政府に反旗を翻すなど、デモの多いアメリカならではの国民性がここにはっきりと記されている。
ここで思わず耳を疑う。
『その』と謳っておきながら、実際に放たれる歌は『それ』なのである。
そして、そんな違和感を我々に抱かせたことなど梅雨知らず、金玉の毛の音がサルボボであると謳う。
調べたところ『サルボボ』とは飛騨高山など岐阜県飛騨地方で昔から作られている人形であるらしい。
いやはや現代のシュルレアリスムか、はたまたナンセンス文学の一種であるか。不思議の国のアリスに登場するジャバウォックもこんな歌を口にはするまい。
固有名詞はもはや擬音語。
まさにレトリックにおける新境地である。
さらにここでは終わらない。
突如、語り手は『いいえ! 忍者がいます』と言う。
素晴らしいチンチンをもつものと、金玉の毛を備えしもの、そしてサルボボの神秘的な音色の正体、それは忍者だったのである。
……しかし、どうだろう。
もし我々が語り手と同様の体験をしたならば「忍者がいます」と言うだろうか。
カルチャーの供給過多な現代においては、ここで意匠を凝らし、奇を衒い、個性をひけらかし、他の追随を許すまじとするのが我々文化人の性である。
しかしながら、素晴らしいチンチンを目にした彼に小細工は必要ない。
「忍者がいます」
それだけで言葉は足りうるということをこの詩は教えてくれる。
これは明確なポストモダニズムの否定であり、令和の禅問答と言っても差し支えないだろう。
『忍者がいます』と唐突に敬語を繰り出すことで、ゴング直前の必殺アッパーカットよろしく我々の胸を打つ。我々は美的表現の坩堝へと巧みに誘導される。
そしていよいよ、曲はサビに突入する。
ヘイ、ヘイと士気を高めた盛り上がりの最高潮。『Let's go』
作曲における王道パターンは踏襲した。しかし作詞家の奇才は隠せなかったようだ。
それは王道でありながら畦道。
息巻いてレッツゴーと昂らせたところ、ジェットコースターのように我が母国の言葉は閃いてしまう。
『喧嘩する』
私の想像力はここでくたびれ、競争社会の皮肉などというありきたりなメタファーに縋りついてしまう……が、それこそまさに批評家的ぶった私の姿勢への皮肉だと感じざるを得ない。
誰が喧嘩するのか、相手は忍者なのか。
曲中では喧嘩の具体的な内容について明らかにされていないが、大切なものが何かは明示されている。
「my balls」――アメリカ国内では様々な意味をもつ暗喩なのかもしれないが、日本の排他的な考古学的見地から推測するに、これは曲の序盤に登場した金玉である。
『喧嘩する』とまで口にした語り手だが、ここで突然『僕が悪い』と告白する。しかし次の瞬間には驚くことに「だから私は戦っている」。
一見矛盾めいて見えるが、しかしそうではない。
感情と理性の衝突、このシンプルな一文に、二律背反を孕む人間性が収束されているのであって。
飽きた。
くどく述べたが聞け、ひとまず聞いてくれ。
終わり。
次回はColdplayの『Viva la Vida』をどこまで下ネタとして解釈できるか挑戦。