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子ども嫌いだった私が教師を志すまでの話
理由は2つ。
まず、単純にうるさいのが苦手だったからです。
元々騒がしい場所や空間が苦手な私は、子どものハイテンションなノリに全くついていけず、騒々しい子どもの姿を見る度、いつも辟易していました。
次に、会話に困る、というか何を話して良いか分からず、対処法に困るからです。
子どもでも中学生とか、ある程度の年齢に達していれば良いのですが、小学校低学年以下になればもう宇宙人です。小さな子どもと接する時は、理解不能の存在をどう扱ったら良いか分からず、いつも緊張して疲れてしまっていました。
そんな私でしたので、
当然、将来は教職に就くなど思ってもいませんでした。
全落ちの大学受験
1つ目のターニングポイントは大学受験でした。
当時、文学に興味のあった私は、某国立大学の文学部を第一希望とし勉学に励んでいました。
ところが、センター試験で大コケし、判定はD判定。
迷った末、僅かな望みにかけ、そのまま志望校を受験することにしました。
予想通り、
結果は不合格。
それだけではありません。その前後に受けていた、滑り止めの私大も全落ち。
つまり、全て不合格でした。
今までA判定しか出たことのなかった大学も含め、全てに落ちたのです。
私も母も浪人を覚悟しました。
地元の予備校の予約の申し込みにも行きました。
ところが、後期試験で受けていた地元の国立大学に最後の最後で引っかかったのです。
私は最初「行かない」と言いました。
それは教育学部の教員養成課程だったからです。私は教育に興味がありませんでした。子どもも苦手です。地元の大学には、文学部がなく、文系だった私は仕方なく教育学部を選びました。
しかし、母は私が地元の大学に通うことを強く望みました。当然、経済的に助かるからです。また、高校の先生からも、「教育学部に行くからって、必ず教師にならなければならないわけじゃない。卒業後もほとんどの人が一般企業に就職するんだよ。」とアドバイスされました。
私は迷いました。
でも最終的に、行くと決めたのは
母から「地元の大学に通うのなら、留学をしてもいい」と言われたからでした。
留学は私の以前からの夢のひとつでした。
しかし、県外の大学へ通うことになれば経済的に難しいだろうと半ば諦めていた夢だったのです。
私は、「留学する!」というその思いひとつで、進学することに決めました。
大学生活と塾講師のアルバイト
さて、教育学部教員養成課程に入学し、新しい大学生活が始まりましたが、教員になるつもりは全くありません。好きな科目を中心に最低単位だけとって後は好きなようにすると決めていました。
そこで、当時、日本史が好きで得意科目だった私は、社会科の歴史教育を専攻し、幕末を中心に研究をはじめました。ただ、好きなことやっていただけです。
サークルにも、入りました。
体育会系の拳法部で、週3回がっつり2時間、夏季冬季の合宿も含め、ほぼほぼ欠かさず練習に通い続けました。
下手だったので、いい色の帯は取れませんでしたが、部活のメンバーと毎日会うのがとても楽しかったのです。
バイトも始めました。
留学を見据えていましたので、留学費用を稼ぐために時給の良いバイトを希望していました。そこで、見つけたのが塾講師でした。子どもは苦手でしたが、時給がいいからという理由で私は塾講師をはじめました。
塾では同じ大学の先輩が、先輩講師として働いていました。
その先輩から初めてバイトを始めた日に言われた言葉を今でも鮮明に覚えています。
「子どもがすっごく可愛いの。ここで働き始めたらやみつきになっちゃう。きっと辞められなくなるよ。」
私は、やみつきになるわけがないと思いました。
金を稼ぐためにやるんだと思っていました。
しかし、振り返ってみるとこの塾でのアルバイトの経験が、私自身が教師を志す一番最初の原点となったのです。
留学へ向けて
アルバイトを始めて、約2年がたちました。
私は、けっこうやみつきになっていました。
最初は時給の良さに目が眩んで始めた塾講師でしたが、意外と性に合っていたのです。
小学生から高校生まで幅広い生徒たちを受け持っていましたが、
たくさんの生徒たちと触れ合ううちに、子どもって意外と悪くないと思うようになりました。意外と可愛いな、とも…。
少なくとも私の子ども嫌いはだいぶ改善されました。
ただ、まだ教師になるつもりは全くありませんでした。
この頃、かねてから希望していた留学に向けての準備も本格化してきました。
留学すると言っても、簡単なことではありません。
経済的な事情から、私は個人留学ではなく、交換留学を希望していました。
交換留学ならば、上乗せの授業料も要らず、奨学金も借りられたからです。
しかし、交換留学をするためには、学内選考試験で選ばれなければなりません。
当時、私が希望していた留学先はアメリカ合衆国🇺🇸のサンフランシスコにある大学でした。この大学が要求する英語レベルは非常に高く、選考試験の壁は厳しいものでした。
一年生の頃から駅前留学はしていましたが、思うように成績は伸びません。
また、留学費用を稼ぐために、私は週5でバイトを入れていました。
好きで始めたサークルはやめたくなかったので、週3回2時間欠かさず練習に通っていました。
おまけに、大学では必修の教育実習もすぐに始まる予定でした。中学校実習の4週間、加えて小学校実習の3週間の計7週間に及ぶ長期の現場実習です。
忙しい合間に勉強をしていましたが、
4年生の春。
交換留学生学内選考試験の前までに、目標の点数に届くことは出来ませんでした。
結果、私は希望していたアメリカ🇺🇸の大学を諦め、要求される英語力が一番低かったイギリス🇬🇧の大学に希望を変更して試験を受けることにしました。
留学、そしてイギリスへ 〜天国から地獄へ〜
合格の知らせが届いた時の喜びは今でも忘れません。
長期の教育実習を終え、全ての必修単位を取り尽くし、学部の卒業要件を満たした大学4年生の夏。
私はイギリス🇬🇧へと発ちました。
この留学が2つ目のターニングポイントとなりました。
この頃、卒業後の進路は朧げながら、マスコミ関係と決めていました。
文章を書くことが好きだったので、新聞社や出版社に就職したいと考えていました。
留学先の大学では、帰国後の就職を見据え、メディア学を専攻しました。
留学生活は、充実していました。
思いっきり楽しみました。
寮に入り、フランス人の女の子とルームシェアしました。
毎週、日本人の友だちとパブやビリヤードに通いました。
頻繁に様々なパーティが開催され、参加しました。
女子ラグビー部にも入り、練習に参加しました。〔イギリスではラグビーは最もメジャーなスポーツのひとつで、小柄で運動音痴の私でも楽しめました。〕
毎日デザートを食べ、毎週学食で世界各国の料理を食べ、変わった果物や料理は何でも試してみました。
バスに乗って、街歩きは毎度のこと。
そして夜は毎晩ネットで好きな情報を検索していました。
好きな物を買い
好きな物を食べ
好きなことをして
散々私は好き放題して
結果
楽しい絶頂の中、
クリスマスの日に突然倒れました。
急激な環境や食生活の変化と無理が祟り
体調を崩してしまったのです。
それからが地獄の始まりでした。
帰国と休学、長期療養生活へ
私の体調は、ちょっと休めば治るという単純なものではなかったのです。
帰りたくない気持ちはやまやまでしたが、帰らざるを得ず
急遽留学を取りやめ帰国しました。
それから半年間は体調不良により苦しみ続け、その間大学は休学しました。
半年経っても、まだ体調は不完全でしたが
ゼミの先生の勧めもあり、とりあえず大学院に進学しました。
このまま
自分はちゃんと普通に働ける体になるのだろうか?
いつもその不安が消えませんでした。
その後薄皮を剥ぐように
徐々に体調は回復してきましたが、それでもフルタイムで働ける自信はまだまだありませんでした。
マスコミ業界で働くという夢は消え、若くして体調を悪くした自分の境遇を嘆き暗がりの中にひとり取り残されたように感じることも多々ありました。
放課後学習ボランティアへの参加
大学院2年目も数ヶ月過ぎ、ゼミの先生の勧めで近くの中学校へ週に2回ほど放課後学習ボランティアへ行くことになりました。
とにかく
体力をつけないと働けないと思い、リハビリも兼ねて参加を決めました。
子どもたちに
「先生ありがとう」
と言われた日。その時の彼らの笑顔が忘れられません。
私は誰かの役に立てた!
働けた!
いや、働かせて頂いた!
自分を必要としてくれている子どもたちが居るお陰で働くことが出来たんだ!
そう思いました。
このとき初めて教師になろうと思いました。
私に働ける喜びを与えてくれた子どもたちに何か少しでもお返しになるようなことがしたいと思ったのです。
考えてみれば、条件も揃っていました。
教員免許はある…
採用試験で必須科目の水泳、ピアノ、英会話は全て習っていた…
病気も含め、全ての一連の出来事が、苦しみが、この瞬間のためにあったのだ、そんな気持ちさえしました。
しかし、
決意したときには既に卒業が迫っていました。
再びの塾講師
縁というのは、不思議なもので
私の状態を聞きつけた かつての塾講師の先輩から、突如連絡がありました。
以前、私に「ここで働き始めたらやみつきになっちゃう!」と言ったあの先輩です。
先輩は既にその塾の社員になっていました。
彼女の口利きもあり、私は再び塾講師として雇って貰えることになりました。
大学院卒業後、
塾講師として働きながら、体力をつけました。体調の維持に重きを置いていたため、この年の採用試験は受験を見送り、臨時講師の登録をして声がかかるのを静かに待ちました。
そして、教員へ
翌年春。4月🌸
地元の小学校から連絡を頂き、
私は教師として初めて教壇に立ちました。
それからおよそ9年。
さまざまな学年の子どもたちと深く関わってきました。
低学年の担任を持たせて頂くことが多く、小さな子どもたちと一緒にたくさん遊んだり勉強したりしました。
今では子どもが大好きです😊
特に小さな子どもはとても可愛いです。
どの子も。どんな子であっても。子どもはみんな尊く、そして可愛いです。
昨年
事情があり、一旦教職は辞めましたが、子どもたちに対する愛情は変わりません。
私は
教員になるまでに2度の大きな失敗がありました。
1つ目は大学受験です。
しかし、もしも、希望どおり志望校へ受かっていたら私は教員へはなっていなかったと思います。
2つ目は留学先での好き放題の生活です。
これがなければ、私は体調を崩すことはなかったかもしれません。体調を崩してさえいなければ、当然教員へはなっていません。
この2つの失敗があったからこそ
私は教員になることが出来ました。子どもを好きになることができました。
今思えば、失敗も含め なるべくしてなったような気もします。
失敗も必然であった、と。
現在
何か目標があって、努力しても思うようにうまくいかないという方もおられるかもしれません。
しかし、人生ままよ。
起こってくる出来事を素直に受け入れて出来る精一杯を尽くしていれば、
必ず新しい道が拓けてくることを信じます。
そこで新しい学びや成長があるものと信じます。
その道は望んだ道ではないかもしれません。
しかし、歩んでみれば案外いい道だったと思える日が来るかもしれません。
嫌でも歩まざるを得ないという道もあります。
しかし、それでも歩み続けるしかありません。
だからこそ
何があっても、
どんな失敗があっても
前向きに正直に人生を生きていきたいと思います。
#あの失敗があったから #教師 #教員 #教育 #子ども #小学校
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