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「ボカロP」という縛りを解いて


心が戻ってきた

路地にある民家で、大通りに面したマンションで、川沿いの公園で、色んな場所で大掛かりな草刈りや気の枝切りが行われていた。夏に生い茂った緑をこの日に整備しましょうと決められたりするのだろうか。季節はすっかり秋ですよと生活をする人々が話しているようだ。と思いきや半袖でもしっかり汗をかくほどの夏日である。夏よ、何回戻ってくるんや。

高校生のころ家でゆずのライブCDを聴いていて、アンコールのサヨナラバスで「サ~ヨ~ナラ~サ~ヨ~ナ~ラ~また笑って話せるその日まで~」というフレーズを観客と一緒に歌う場面があった。ライブなら楽しいのだろうが家で音源として聴くにはあまりにも長過ぎるコール&レスポンスに思わずおかんが「何回やるねん」と突っ込んだ。サヨナラしたと思わせて何度もやってくる夏。アンコールも長すぎるとありがたみがなくなるというものである。

しかし人間はたとえ自分の思考であっても接触回数が増えるほどそれに興味を持ったり好きになったりする性質があり、何度も聴きすぎたせいかその後おかんがゆずで一番好きな曲がサヨナラバスになっていた。夏よ、お前はもういいよと言いたくなるほどのぶり返し様だが、久々の散歩をする自分にとっては気持ちのいい気候だった。おそらくゆっくりとただ楽しむためだけの「散歩のための散歩」ができたのは1年半ぶりぐらいだと思う。アンコールでぎりぎりちゃんと夏を味わえたような気がする。

コンクリートの壁に擬態して張り付いたヤモリを見つけてうまく化けるなあと感心したり、ヤモリとイモリどっちだっけと気になって調べたり、ヤモリイモリタモリと心のなかで語感の気持ちよさを咀嚼した。前から茶色のミニチュアダックスが歩いてきただけでニコニコした。かわいい。池には蓮の葉が今年も大きく広がっていた。暑くてのどが渇いたからソルティーライチを買おうと思ったがもう陳列されていなかった。昨日まで売ってたのに。スーパーでは夏が終わっていた。

この1年半は精神的に大きな変動があり、外をゆっくりと歩きたいと思うことさえできず、暑いとか寒いとかそういうことにも無関心になっていたのでこういうことにいちいち感動できる心が戻ってきたことが嬉しかった。

あ、僕、ずっとダメだったんだ

おそらく鬱だったのだと思う。病院に行って診断されたわけではないので医学的にはわからないし、自分程度の状態で鬱だというのは重度の人に対して失礼ではないか、その程度でと叱られないだろうと気にして言葉にしづらく自認を避けがちな言葉でもあったが、軽度であってもあれは鬱だったと自分の中では受け入れてしまわないときっと持たなかった。

ボカロPを始めてから良くも悪くも人と比べることが増えた。その中で、大きな祭りでもあり登竜門的な大会でもあるボカコレというイベントでランキング入りをすることが自分にとっての目標だった。だけど気楽に気楽にと思いながらも気づけば「どうしてあの人と比べてダメなんだろう」と負のループに入っていた。そこが第一の落ち込みポイント。しかしこれはいつものことというか、一生懸命に取り組もうとしたことに対して大体こうなるので落ち込みつつもやり過ごしていた。

きっかけは次のポイントだった。

アルコール依存症になった知人が「酒が好きなわけじゃないけど現実から逃げたくて飲んでしまう」と言っていて、当時の僕は全部向き合って乗り越えてきたからわからないなと思っていた。僕は酒も飲まないしギャンブルもしない。プライベートで人と会うこともほとんどなく、お金や技術で対価を返せなければつり合わないと感じる。借りができるとしんどいから中々頼ることができず気軽に悩みも打ち明けられない。それでもなんとか乗り越えてきたし大丈夫だと思っていた。

しかしある時ふと気がついた。制作に行き詰まっている時、劣等感に苛まれている時、別に楽しいと思っていないのにゲームを辞めることができない。おもしろいと思っていない異世界転生系のチープな展開の漫画をダラダラと読み漁っている。気がつけば三時間、四時間、朝だったのに夕方になっている。そろそろやることやらなきゃ、でもあと一回だけ、あと一話だけ、あれもう夜中だ。何もしてない。一日を取り戻さないと。でも眠い。眠いのに寝たくない。やらなきゃ、面倒くさい。悩んでいるうちにまた一時間。寝不足。ご飯を作る気力もない。お菓子しか食べていない。血糖値スパイク。悪循環。

依存症といえば酒やギャンブルというイメージがあったけれど、そうではないところで自分もしっかり現実逃避をしていた。なんとかしんどさを見て見ぬふりすることで倒れずにいられた。「あ、僕、ずっとダメだったんだ」。蚊に刺されたことに気がついてから急に痒くなるように、自分がずっと限界だったことを自覚した瞬間にガクッと力が入らなくなった。そこから一気に転げ落ちていった。

人間はたとえ自分の思考であっても接触回数が増えるほどそれに興味を持ったり好きになったりする性質がある。それはネガティブな方面にも作用する。反芻思考というやつだ。自分はダメだとかそういうことも自分が頭の中で繰り返していると「事実」とは関係なく、「自分の中の真実」としてそれが強化されていく。これが厄介で、真実とは人の数だけ確かに実在する世界なのだ。"スパイスをふんだんにいれたカレー"という事実はひとつだが、それが辛いのか辛くないのか、もはや痛いのかは人の感想の数だけあり全てが本当なのである。

もうダメだと思ってから、なにかしんどいことがあると「死にたい」と思うようになった。なんでもないときは「ちょっと嫌な気分になった」とか「仕事がうまく進まなくて悔しい」とグラデーションで感じられるのだけれど、ベースに「生きているのが苦しい」があると全てが死にたいという極端なところに雑に結びつくようになる。それが癖になり、頭の中で繰り返し強化され、ちょっとしたことが死にたいに直結するようになる。

「死は救済」という言葉をはじめて体感で理解した。死にたくなるのは生きたい証拠だよという言葉は無責任だと強く思った。実際、本当は生きたかった。楽しいことがあってそれに素直に笑って、嫌なことがあったら友達に愚痴っていろんなことに感情を動かしながら人と一緒に活き活きと過ごしたい。表裏一体。それができないのに諦めきれもしないからこんなに苦しいのだ。表現が難しいが、おもしろいことはあるけど楽しいとは違う。気を紛らわせているだけで生きたいとは違うという感覚だった。「生きたい証拠だよ」なんてのは、表面しか見ず「じゃあそうすればいいじゃんと」言うようなもの。裏面を無視した表面の肯定は、コインそのもの、生きることを否定することなのだ。

相談してくれればと周りの人はきっと思うだろうが、それができる人はきっとこうはならない。見ている世界が違うのだ。そう思うと余計に誰にも言えない。空気を暗くしてしまうのにも耐えられない。どっちつかずの精神状態で唯一見える光が、苦しさから解放が死だったのだ。

ホロライブ

そんな状態がずっと続いていた時、ひとつのコンテンツに偶然出会った。ゲームや漫画と同じように惰性でYouTubeを見ていると"終始心にくる神シーンの連続で、ドラゴンボールと出会えて感謝するぺこーら"という動画がおすすめに表示された。

自分の好きなシーンを人が見てどう思うのかというのは結構な需要があるように思う。School Daysの誠が刺されるシーンやあの花のめんまとのお別れシーンをお笑いコンビのFujiwaraが視聴する動画や、ニンテンドーダイレクトでマリオRPGのリメイクが発表された時の海外のリアクション動画で僕も大いに笑わせてもらった。

ドラゴンボール名シーンにふらふらと吸い寄せられるように動画を再生すると、そこには自分の好きなコンテンツに思い切り感動している女の子がいた。そうだよな!そこいいよな!とニヤニヤした。

彼女、兎田ぺこらさんはホロライブという事務所所属のVTuberらしい。純粋ないち視聴者としてVtuberという存在にはじめて触れた瞬間だった。バーチャルだとかリアルだとかはどうでもよかった。好きな漫画と生身の感情がそこにあってそれがよくて気づけば他の動画もクリックしていた。ホロライブは事務所間でのコラボもあり、流れで好きなVTuberが少しずつ増えていった。毎日元気をもらっていた。

自分の人生を生きていないと病気になる

その後、音楽制作のスランプを抜けるきっかけを見つけ、数ヶ月学びにのめり込んだり、提供曲を歌ってくれているライブを見に行く中で少しずつ少しずつ生きる楽しさを取り戻していった。

きっと退屈していたのだと思う。いつしか傷つくことを恐れるようになった。行動すると傷つく。感情で動くと人とぶつかった時辛い。それならやらないほうがいい。というのは言い訳で、本当はやりたいけどどうしても逃げてしまう。そうやって行動せず感情じゃなく理性に従うことを続けていると何もかもがつまらなくなる。人も動物、感情が第一にあり社会は生活様式の変化で生き残るために作られたものなのだ。

暇と退屈は違う。暇は好きなことをしたり休んだりできる物理的な時間の余剰。退屈は興奮がなく不快なこと。どんなに忙しくても退屈はする。暇だな~という人を見るとそれは退屈だろうと思う。この本を見つけた時、同じことを思っている人がいた!と興奮して直ぐに購入した。

この本の中にある哲学者パスカルの言葉が大変おもしろい。

人間の不幸などというものは、どれも人間が部屋にじっとしていられないがために起こる。部屋でじっとしていればいいのに、そうできない。そのためにわざわざ自分で不幸を招いている。

退屈している人間がもとめているのは楽しいことではなくて、興奮できることなのである。だから事件の内容は、不幸であっても構わないのである。

暇と退屈の倫理学

心を停止させて退屈していた僕は、結局退屈には耐えられず「死にたさ」という不幸による刺激を自分に与え続けていたのかもしれない。

そしてもう一つ自分が出会ってよかったと思っている記事を紹介したい。

まだコーチングの勉強を始めた新人の頃、忙しさのあまり、過労からマイコプラズマ肺炎になって入院しました。当時の上司がお見舞いに来てくれたときの言葉は忘れられません。開口一番、「君は何を言っていないんだい」と聞かれました。突然で面食らいましたが、「休みをください」と返しました。すると、上司は「人は、口で言えばいいことを、体で表現する。次回からは体でなく口でそれを言いなさい」とだけ言って帰っていきました。その後、私のマイコプラズマ肺炎は医師の予測よりずっと早く治りました。

PRESIDENT Online

人は口で言えなかったことを体で表現するという考えが科学的にどうなのかはわからない。しかしまた別の著者の本にも子宮がんになる人は自分が女であることに問題を感じていると書かれていた。また、精神科医の名越康文先生が好きなのだが、名越先生の扱う部門に「体癖」というものがある。人は体の形、癖によって性格を分類できるというもので、その分析がまた当たる当たる。本当におもしろい。自分の体感も含めてきっと多かれ少なかれ言葉、心、肉体のリンクはあるのだろうと思う。

あの人と比べて勝っている劣っている。人と深く関わる行動をしない。感情をなるべく動かさないように。空気を悪くしそうだから悩みを言えない。対価が渡せないから頼れない。僕の行動は全てが「他人にどう思われるか」で決まっていた。つまり自分の人生を生きていなかったから病気になったのだ。

新たな目標ができた

今は音楽の勉強にのめり込み、それに進展や手応えを感じていて、退屈を忘れられている。提供した曲をライブで大切に歌ってくれているのを見たり、人目を気にせず楽しんでいるお客さんの空気に触れて、人が喜んでくれていることが自分自信の喜びとして湧き上がる感覚を改めて味わえた。なにかに没頭する時間が、社会の中にある個人的な喜びが、少しずつ感情のグラデーションを復活させてくれた。そして今日の散歩は楽しかった。

退屈が和らいでからはホロライブの動画を前ほど頻繁には見なくなった。自然な楽しみとして見れるようになった。それは最も苦しかった時、一人ではどうしようもないけど誰にも言えなかったとき、感情がどんどん動かなくなっていくとき、画面の向こうででかい声で叫んだり、くだらないことに息ができなくなるぐらい笑ったり、感情を大爆発させて目の前のことを楽しんでいる人がいることに本当に救われていたからだ。本当に感謝している。

ボカロPとしての活動の中で、ボカコレでランキングに入ることにこだわってきた。だけど最近は少し違ってきていた。以前よりピュアにたくさんの人に聴いてもらいたいと感じる中で目標がうまくつかめなくなってきてもいた。

だけど新たにひとつ目標が見つかった。いち音楽人として、自分を救ってくれたホロライブと音楽で関わりたい。

「ボカロP」という縛りを解いて

僕は「僕の曲」をボカロが歌うというスタイルで活動している。僕はボカロをプロデュースする人ではないのかもしれない。でも「自分のためにボカロを利用している」と言われる場面を想像するとなんだかすこしムッとなる。少なくとも可不に関してはパートナーとして一緒にやってきたのだなと思う。

この界隈に来たときからずっと、ボカロを熱狂的に好きな人を見てきた。それに比べたら自分の好きは愛とは呼べないのではないか。愛レベルまでいかないとボカロPと言ってはいけないのではないか。そんな後ろめたさがあった。

ボカロPが歌うことを嫌だと思う人もいるらしい。ボカロを自分の曲を聴かせるために利用しているのが気に食わないという人もいるらしい。僕は自分でも歌うし、楽曲提供もするし、ボカロで曲も出す。それははたから見れば気に食わないと思われるのかもしれない。でもそんな区分けはもうどうでもいいんじゃないかとも思った。

自分で歌うのも、ボカロで曲を出すのも、楽曲提供するのも、なんなら普段出しているのとは違ってボカロのために曲を書くのも全部等しく好きで、全部別々に楽しい。ボカロ曲の投稿はたくさんの人に聴いてもらいたいしランキングも乗れたら嬉しい。それと並行してボカロPの活動から別のルートにつながっていく未来だってみたい。いつか自分の曲をデュエットしてみるのもいいかもしれない。

次回のボカコレでルーキー期間が終わる。ちょうどボカコレランキングだけを目標にすることから心が動き始めていたところに、ホロライブに関わるという目標ができた。「利用」とかじゃなくボカロPとして活動をしながらも、ボカロPという縛りを解いて開けるドアを増やしていくイメージでやっていけたらと思う。

そのためにもっとクオリティーを上げて、音の面でも競えるようになりたい。しばらく曲を出せていないがそんな未来のためにぐっと立ち止まって勉強をしている。ボカコレルーキー期間で結果を出せなければやめようと思っていたけれど、また目標が見つかってよかった。単純にボカロと曲を出すことが好きになっていたからやめなくてよかった。コツコツとやっていこう。また曲が出たときはぜひ聴いてやってください。


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