真夏の陽射し
連休土曜日の午前は雨も上がって、自転車で眼科医へ検診に行く。来月には個展を控えているので、平日に行くことがなかなかできない。仕事に出ている殆どの人はそうなのだと思い、混んでいても仕方ないと待合のソファで珍しく本を読む。
このところ、左の眼の端が瞬時、眩しくなるときがある。目を使う仕事なので、画面の見過ぎが応えているのだろうか。痛みはないが、半年ぶりに、瞳孔を開いた状態にして、眼の奥まで観てもらう検査をする。随分前だが、網膜剥離をした時の痛みのせいで、時々眼が心配になるのだ。
結果は年齢に応じた生理的な現象だった。幸いなことである。極度の近視は老眼が進んでから何故か楽になったが、朝昼晩での見え方がかなり変わってきた。
朝は斜めの薄い光、昼はハッキリと、夕暮れは境目が消えゆく不思議さ、夜は星と月と電灯の遠い光。その時々で見えるもの、目に最初に入ってくる色や形が、最近異なってきた。朝見たものは夜にはすっかり消えて別の風景に変わっている。そのような当たり前のことを、つくづく感じるようになった。多分、私が使う色彩も組み合わせも随分変わってきているのだろう、気づかないうちに。
同じ作品を見ても、聴いても感受機能は、100人いれば100通りあるのだろう。千差満別は当たり前だが、「好き嫌い」だけでは作品は作れないし、作るべきではないと思う。「好悪や趣味」は自ずと現れるもので、それらの厄介なものをコントロールする技術が必要になる。わざわざ人の眼に映す物を作ることは、自分の心情を相手に押し付けることとは異なる。何らかの変換作業が作品制作には必要で、変換するプロセスに作品の意味合いが含まれている。そして今目の前にある作品は、観客のレンズに映すことが、最終プロセスとなるのだと思う。未発表作品とは、その最終プロセスが未だ来ない作品とも言える。
瞳孔が元に戻るまでは、曇り空の日でさえ、真夏の真っ昼の眩しさが続く。元に戻るまでの五時間ほどは、目を開けることも憚られ、眩むばかりの世界にいる。医療の話だが、ほんの少し前まで、こんな眩しさが急に訪れたなら、奇跡だと言って大騒ぎをしたことだろう。人工的に作った視覚とはいえ、私の身体には変わりない。
ストーブに当たりながら真っ青な青空を見る土曜日の午後の雑記
©︎松井智惠 2024年2月24日筆