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晩秋のお別れ

今日は知古の方の葬儀だった。
大阪の町なかにあるお寺の庭は、赤く色づいた桜の葉がふんわりと木の根元を覆い、風が吹き抜けるたびに枝に残っている色が空に浮かんでは落ちる。
いよいよ秋も終わりになって空の青さも透明感が増して薄い。雲が風と共に流れるようにやってきては、淡い影をつくる。

風の吹く晩秋に、仏式の通夜葬儀はしめやかに行われた。
故人はそのお寺の方だった。自坊で行われる葬儀なので「寺葬」という。
親族や、ご友人、町内の方々、寺院関係の方々が、同じ場所で読経を聴き、香を供え、喪主のご挨拶、法話が行われる。時間は一時間と、昭和の頃に比べると短くなっているが、儀式として一通りの過程が行われる。
今では、珍しいことかもしれない。

夏が過ぎ、九月の終わりから、お世話になった方々の訃報が続く。
ここ数年で、同年代の作家や友人も含めると、かなりの有縁の方々が彼岸へ逝かれた。

それぞれ、お別れの仕方は多種多様。葬儀は家族で行い、後でお別れ会をされる方、本当にひっそりと静かな別れを望む方、賑やかに旅立ちを送られる方、残った近しい方が心を込めてどのような形であれ、行う葬儀。
十年先には、葬儀を執り行う近親者が身近にいないことが珍しくなくなるだろう。血縁を調べた結果、ある日この人の葬儀を行ってくださいと頼まれた時、全く面識のない方の旅立ちに、どのように向かうことができるだろうか。

葬儀に身を置くと、気持ちがスッと軽くなるのはなぜだろう。
経済的に無理な葬儀をする必要はないと思うが、生きていた時の感情が、悲しみや寂しさによって浄化されていく葬儀の過程は、太古から人間が必要としてきた大事な儀式なのだと思う。社会的な存在としての生き物、人。

所詮芸の道に入った己の身は、どのようになろうとも、作ったものが何かを語りかけてくれる。そして、作り手が亡くなった後は作品が独り立ちすることを喜ぶべきだろう。すでに亡くなられた方々を追悼して気付くのは、死は多くを語らないが、予想しないことを教える、何かを。

芸術の源まですっと降りていく何かを。


©️松井智惠               2024年12月7日





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