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「個展が終わり雑記」
作品を持ち帰って倉庫に入れる作業と掃除で、昨日は終わった。
いつも通り「浦島太郎症候群」が始まる。
作品とそれにまつわる言葉で埋まっていた7ヶ月間の日常から、徐々に離れていく感じがしている。
でも、まだ身体はあの鏡ように、どこかに置き去りにされた感じがしている。
絵の中なのか。それとも時間の中なのか。言葉の中なのか。
今回は、ギャラリーの工房で制作していたので、規則正しく出勤していた。帰宅するとホッとするなんて当たり前なのに、その感覚はとても新鮮で、とうに忘れてた暮らしをしていた。自宅兼アトリエは、便利なようでそうでもない。目に入るものが全て美術に関係していくので、歳と共に息が詰まることも多くなってきた。
振り返れば、ずっと締め切りに追われているような三年間だった。
昨年2023年は、一月から東京での個展と埼玉近美での映像上映会を控え、
正月の休みは元旦のみで幕を開けた。その前年から、準備でしっちゃかめっちゃかの日が続いていた。コロナが少し落ち着いてきた頃だったが、PCR検査を受けて埼玉まで、準備のために頻繁に通っていた。
個展と埼玉近美での展覧会が終わり、作品が返却されたのが昨年の二月中頃だったろうか。その後は一匹の猫とこたつに潜り込んで、ドラマを見る日々が続き、何をしていたのかほとんど覚えていない。
少し暖かくなった頃に、ギャラリーのオーナーから2024年の個展の打診を受けたような気がする。「モノタイプと鏡」。これをどのように自分の作品の文脈の上に載せることができるのか?
わからないまま、わからないからすることにしたのかもしれない。
もう、一昨年のようなひどい状態で制作するのは、まっぴらごめんだと思いつつ、手で直に描かないモノタイプに少し逃げ場があるかもしれないと、期待したのも事実だ。初めてやってみることが、まだあるということは嬉しい。初心者に帰ることができるからだ。
五月に入り、三毛猫の子猫を引き取ることにした。一匹になった猫はすぐ子猫の世話をするようになった。展覧会で荒れた絵から少し離れていった。
子猫の毛の白さと肉球の桃色。
初々しいエネルギーで満たされた小さな子猫は、丸くなって恐れを知らないまま寝息をたてた。彼方から此方へ現れてまだ二ヶ月。彼女の瞳には何が映っているのだろう。「置き去られた鏡」展の始まる前の日は彼女の一歳のの誕生日だった。
©︎松井智惠 2024年4月25日