英語に訳せない「恨む」
今日も、おばあさんは恨みをひとしきり話していた。
夏の間は、暑いなあとか日常の雑談が多くなって、少し世間話の量が増えてきたので会話になっていた。
早くに娘を亡くしたおばあさんの悲しみは、半年くらい経った頃から、耳に入る噂話から知らなかった娘の仕事や日常で関わっていた人々や家族に、恨みの対象を見つけていくようになった。
病を持った人が亡くなると、直後は看病から死へ、そして弔いの期間の落差で気持ちを確かめることもなく、わからない時間が過ぎてゆく。しばらく経った頃、苦しかった看病生活と、それが報われなかったことへの罪悪感や、喪失感が急におばあさんの気持ちに押し寄せてきたようだ。
いたわりの思い出話も、時には残酷なこともある。
良い思い出話ばかり聞こえてくるとは限らない。一生分の人間模様の中で、娘の味方と敵が現れる。
娘が可愛い分だけ、どうしようもない喪失感の矛先は、敵への恨みへと変わっていく。亡くなった娘が怒りを覚えていたかどうかは、誰も知らないし、わからない。残ったおばあさんは悲しむと同時に、行き場のない感情を「恨み」に変えてしまう。
そのような物語を、おばあさんは自動生成して悲しみのガス抜きをする。
「あの子のためにも忘れてはあかんやろう、この恨みは。」と問われた私は、困った。
おばあさんは、何度も繰り返す「恨みを忘れない」。それには同意もせず否定もしなかった。おばあさんが、恨みを忘れないのならば、私が何を言っても仕方がないことである。たとえ、その時に同意して欲しいという懇願に満ちた視線を感じていたとしても。反芻は、恨みの質を変化させる。
今日のスープは何にするか?
そのことの方がよっぽど切実なはずなのだが、人は恨みの心でいっぱいになると忘れてしまう。
恨むなかれ。好き嫌いと敵味方は生きている人よりも、その人が死んだ後に血族や信奉者によって生じる。
娘さんは最後まで仕事に打ち込み、特定の人を恨むことなく彼岸へ旅立った。弔いに恨みを持ち込むなかれ。
©️松井智惠 2024年9月9日筆