断罪しない言葉のための詩論

はじめに

本論は私の個人的な詩作の方法、つまり言葉との付き合い方についてまとめる試みである。この方法によって私は詩を読み書きすることを許された。またこの方法によって、たくさんの怒りを葬った。この方法自体は人類にとって既出のものだが、ここに記載する意義はまさしく、本論が私の個人的な実感を伴っていることである。本論の根底にあるものを導出することに要した時間、その苦悩を踏まえると、この実感はひとりの人間の生涯に値する。

私は本論で全ての詩を読む人、書く人を讃美したい。詩を読み書きすることは、驚嘆する他ない、凄まじいことだ、と。
そして詩を読まない人、書かない人ーー詩の心が見えない人ーーにはこれを力の限り現前させて、あなたを、あなただけを開眼させる覚悟がある。なぜなら、詩の心が見えない人には、人間が出会うことのできる美しいもののほとんどが、見えていないと言っていいからだ。

詩の心は、深い森の奥、静謐に微睡む魔物のように映るかもしれない。かつて私がそうだった。だが、その魔物こそが、ある種の審美のための切り札であり、人間的な生において、最も従える価値のある魔物である。詩の心が根源的に存在しない人などいない。詩の心が見えない人とは、目を瞑っている人のことである。

これを書き記した結果が、衝突でも軋轢でもなく、ある誕生であることだけを祈る。

断罪する言葉

「言葉は断罪する」

この言葉によって、言葉は断罪という概念と結び付けられ、言葉は断罪することが“義務付け”られた。これが言葉の断罪性である。あらゆる言葉は言葉と繋がることで、断罪され、断罪してしまう。この性質は、数多の歴史的意義を持っている。国家が他の国家に対して「戦争だ」と宣言すれば、国家同士は戦争によって繋がり、更に付随して見えない主語(即ち、国民のことだ)たちは、従軍する、という種の断罪を余儀なくされる。ここでの言葉は定義するものであり、輪郭を生むものであり、人を殺すものである。この断罪性は、言葉が生み出されることとなった、その理由・目的そのものだった。なぜなら、例外なく言葉とは、人間の人間による人間のための発明なのであって、世界を断罪することでしか、人間はこのように発展し得なかったのだから。だが、この種の断罪を永続的に反復することは、果たして人間のため、と言えることだろうか。

我々は、自由を求める生き物である。しかし、言葉の断罪性は、あるレベルで自由と相反する。そのために、言葉を扱うこと、あるいは生きることは、苦痛を生じる。この苦しみを避けるために我々は何をなし得るか。言葉を放棄することかもしれない。あるいは生きることを辞めるか。本論はそれらとは違う態度を目指す。ここで「ぼかし」という概念を提出する。

「ぼかし」という猥褻

ぼかしというメチエは極めていやらしい技法である。ぼかしの一種であるモザイクは、陶磁器や石、貝殻などを建築物の壁面や陶芸、工芸品の装飾として施す(=散りばめる)ことで、絵や模様を表現する。他方、モザイクは、アダルトビデオにおけるモザイク処理、つまり「ぼかすもの」としての性質も持っている。よって「ぼかし」という概念を、「散りばめるもの」と「ぼかすもの」の両義性を持つもの、と定義する。

ここで、うまいことを言うつもりはないのだが、「ぼかし」の解像度を上げておきたい。一般にぼかしは絵画的な技法であり、モザイクは壁画的な技法であるから、その共通するところはArtであるということ、あるいは、光、まなざし、認識、精神によってはじめて成立するArtificialなものであるということが言える。ぼかしが上述の通り、散りばめ、ぼかすものであることを踏まえ、「ぼかし」の概念的な意義を以下3点に集約する。

①光をふやけさせる性質:光は本来、認識されるものに対してまっしぐらに進むように見えるが、現象の主客のあいだに「ぼかし」を導入することで、その光はとろみのある水に浸されたようにふやける。その一例を挙げるとすれば、認識の主体として複数の客体、即ち複数の現象を同時に認識しようとする場合の、その光の束はまさしくふやけている。ふやけた光がもたらすこと、それは罪を罪として断定せず、曖昧なままに認識するということ。日常の中に非日常を取り込み、逆に非日常の中に日常を見出すということ。そしていやらしいことに、もはや苦痛は苦痛ではなく、快楽もまた快楽ではないということ。

②境界を不明瞭にする性質:光がふやけることで、あらゆる現象の輪郭は溶ける。輪郭が失われた現象には境界、即ち主客の根底に横たわる拒絶があり得ない。その奥行きは無限となり、境界はグラデーションとなって、すべての現象は風景と化す。するとたちまち、現象が現象たる所以、認識そのものが薄れてゆく。しかし、それは決して遮断ではない。ぼかしの成立条件には光、まなざし、認識、精神が含まれているからだ。むしろ現象とまなざしは溶け合うことで主客を失ってゆき、結果として極めて性的な関係性を築いてゆくことになる。それは、あらゆる境界がないという種の淫行。認識するものと認識されるものとの濃密なセックス。

③現象を遍在させる性質:モザイク的な散りばめによって、現象は単一ではないかのような様相を呈しはじめる。器官による単一の現象は、無数の細胞によって生成されており、物質という単一の現象は、無数の原子によって織りなされている。有機物ならびに無機物のスケールの極致、それはまさしく宇宙であり、宇宙現象を直視する、その美しさに囚われず、「ぼかし」によって眺望(=モザイク処理)すれば、闇に散りばめられた星の光が見えてくる。星の遍在性、それがモザイクの最もいやらしい性質である。

以上3点を総括する、「ぼかし」にまつわるストーリーは次のようなものだ。「ぼかし」は、言葉を処刑台から引き剥がし、言葉の形態と運動を薄い膜で包む。膜で包まれた言葉はやわらぎ、たちまち卵割的な分裂をはじめる。その分裂によって、言葉は胚のようにその歴史を辿り、生成変化の最中(子宮の外)へと投げ出される。その過程を経て言葉は、かつて絶対的と思われたその境界を捨て去り、社会性を獲得した言語(宇宙における星)となって、ユビキタスなもの(遍在するもの)として、相互作用をはじめる。

即ち、断罪する言葉を避けるための「ぼかし」という方法、それは、性的(人間的)に、切断の縦糸と接続の横糸によって、美というタペストリーを織ることである。ぼんやりと眺めること、そしてどこにでも、無数にあるために、自由でありうるという性質を現前させること。これが「ぼかし」という猥褻の真価である。

やわらかい光、共在と共存のための

共存していないという状態、それは共存していない側に責任があるわけではない。共存とは、2つ以上のものがひとつところにあってなお、軋轢も不和も生まれない状態を指し、ある集合における任意の存在を互いに肯定し合うことである。共存していない状態、つまり軋轢や不和が生まれるのは、ある認識(主客は問わない)が、それを「軋轢(ないしは不和)である」と断罪してしまうことに起因する。ここで「ぼかし」を実践する。すると、どうなるか。軋轢だと思われていた現象は風景の中に溶け入り、当然そこにあって然るべき光として主観の前に現れる。その光はやわらかく、どこまでも、どこにでも、現れうる。現象の無限性・無数性・無量性の獲得、それによる存在の”どうでもよさ“によって、あらゆる存在は共存することができるようになる。主観を離れる必要はない。主観によって性的に緩衝すればいいのだ。それは、人間をやめることではなく、人間として、実存の可能性を模索することに他ならない。

詩が沈黙するこの時代は、断罪の温床である。利害ありきの先入観、まことしやかな権力構造、偏屈と言わざるを得ない視野の狭さなど、面白みに欠けるパラダイムへの立脚によって、依然として致命的な断罪が繰り返されている。そしてそれらに対する嫌悪感から、それらを超える手段を見出さなくてはならないと決意し、この着想は出発した。よって目指すところは、間違いなく、他との共存だった。断罪しない言葉を扱うことができれば、平和が齎されるかもしれない、という希望。

だが、これが最も重要なのだが、以上の言葉、これらはすべて断罪に分類されるものであり、この断罪性もまた超えるべきものだ。

「ぼかし」を常に体現することはできない、ということ。これを肝に銘じておかなくてはならない。現に愛する人を奪われたならば、真顔で、徹底的に断罪することを避けてはならない。ここで「ぼかし」を導入することは、心情的にも倫理的にも不可能だ。この種の不可能性に接した時、人は自身の分裂症的なふるまいに苦しむことになる。正しさという不気味が、いやらしさという軽業を凌駕することによって、人はあっという間にノイローゼになる。だが、そもそも、一貫して断罪しないことは、その一貫性において自らを断罪していることにはならないだろうか。断罪をしてはならないという思い込みは、実は言葉の断罪性によって駆動している、というウロボロス的な転換。断罪とは、まさしく一元化のことである。

言葉が共存するのは、言葉の、一元化されず、イデア、意味、文脈が“共在する性質”に由来する。言葉はもはや道具ではない。鋏はモノを切るためにあるが、言葉は何をするためにあるか、誰もその正しい扱い方を知らないからだ。そのことにこそ、言葉が切りひらくであろう未来が横たわっているのでなくてはならない。そうでなくては、もはや言葉は無用の長物なのだろう。

いずれにせよ、万物を断罪せず、共存させることは、不可能ではない。それは少なくとも、現象を「ぼかす」という方法によって、なし得る。言葉を断罪しないこと、そして、断罪しない言葉の共存、共存することで可能になる対話、そして社会的言語として“共在しつつ共存する言葉”の誕生。これが私が生涯をかけて発見した、”やわらかい光“の本質である。

おわりに

単に認識しているだけでは、“やわらかい光”を、また、その美しさを見出すことはできない。更に言えば、その光の美しさは言葉の断罪性によっては、決して認識できない。なぜなら、美しさは、常套句的でもなければ、定型文的でもないからだ。美しさは、どこにでも現れ得る故に新しい、ある種の発見であるはずだ。美しさは、偏りでなければ、遮断でもない。美しさは、詩の心がもたらす、可能性の萌芽であり、限りのない奥行であり、永遠の余白である。

人生は物語ではない。一貫すること、一元化することはまさしく断罪であり、物語的(完結に向かう)生は、モデルとして想定され得るとしても、完全かつ簡潔すぎる。人生とはむしろ文体であり、死とは完結の換喩である。完結は断罪に他ならず、“やわらかい光”を認識をしている限りは、その断罪に飲まれることはない。「ぼかし」は、詩のための技法であると同時に、生きるためのレトリックである。

最後にこれだけは付記しておく必要がある。本論は、詩について書いているようには見えないかもしれないが、それは意図してのことだ。この文章は「ぼかし」によってはじめて、詩論として機能するものである。逆にいえば、この文章の主語はぼかし、散りばめられていて、いかようにも読むことができる。この文章が、ある誕生に結実するならば、それ以上のことはない。それこそが、私にとっての美そのものなのだから。

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