序文、季節の実践のための

ぼくは以下のことを、「生きるという実践」から導き出したので、参照するべき言葉を知りません。批判では決してないのですが、参照は繋ぐという種の美しさがある反面、あらゆる余韻を奪い去るような速度と、権威性に近づいてしまう懸念があるので、できることならこれを避けて語る必要があるように感じています(愛の表明については、その限りではありません)。そして何より「参照しないこと」は、ぼくがこれから語ることの鍵を握っているような気がします。自らの言葉で語るという、覚悟。空虚故に普遍であるという、覚悟。絶対的な孤独という、覚悟。そして、はじめるという、覚悟。ぼくはこの序文を以て、これらの覚悟と訣別することになるでしょう。なぜなら、ぼくは来たる「季節の実践」、それだけのためにこの言葉を書くので。では、はじめます。

季節とは何か

季節にはcontent(中身)がない。季節は言うなれば「あいだ」のことであり、その「あいだ」は媒介性である故、季節はmedium(媒体)である。木々は季節によって色めいているのではなく、太陽と、地球と、大地と、空気と、木々と、我々との間に横たわる数々の関係性によって、色めく。我々と色めく木々のあいだにおいて、季節の到来は必ず、予感される、というやり方で登場する。季節にcontentがない理由。ひとつは、季節そのものを指差して確認することができないこと。そしてもうひとつは、季節に内包されているように見える色めく木々は、季節に直接的に従属している訳ではなく、我々の認識が季節と色めく木々を繋ぐ、というやり方で、我々の恣意性によって内包されているように見えているに過ぎないこと。あくまで、季節を通過することになった事物の「あいだ」を認識することで我々は、季節というmediumを予感しているのだ。

季節というmediumは必ず孤独、即ち単数形である。媒介されるものは当然、媒体を通過するが、それは媒体に寄り添うのではなく、媒体を利用する行為的側面に他ならず、また多くの場合、媒介されるものは、媒介されていることを意識しない。このことは媒介されるものを受け取るものについても同様である。故に季節は、絶対に孤独である。

加えて、季節は吊り支え的でありながら、完全に無視され得る。現代における神とよく似ているが、神のように、正義を主張したりはしない。神のように、過剰な価値を与えたり与えられたりしない。神のように、人を罰したり、引導したり、悔い改めさせたり、畏怖させたりしない。季節は全くもって無力である。

まとめると、季節は、contentを持たない空虚であり、空虚故に普遍であり、絶対的に孤独であり、無視され得るmediumであることになる。以上の季節の性質と在りかを踏まえ、季節がどのようにふるまうかを省察しなければならない。

季節のふるまい

季節はmediumであって、mediaではない。季節は世界にふたつとないからだ。加えて季節の絶対的孤独は、常に双数的関係を前提としている。つまり、我々認識するものと季節は、一対一でしか接点を持ち得ないということ。隣人と共に見ているものは色めく木々なのであって、季節ではない。季節との接点は常に事物と事物の「あいだ」にあって、かつそれは内容がない故に、なんの形態をも持っていない。形態を持つものはイデアを複数持ってしまう懸念があるけれども、季節には本質的な中身がなく、季節が季節として新たに形作られる要因・契機がない。季節のイデアは、春が夏に、夏が秋、秋が冬、冬が春に移ろい、円環を成しているという「あいだ」から生まれた。しかし、それ故に、それ以上掘っても季節からはなにも出てこない。季節は空虚である。

以上のことから、季節は現実世界においても、イデア界においても、必ず単一のものであると言える。ここで、神でさえ、人によってあれほどの違いが生じるのに、季節が単一であるのはなぜなのか、という疑問が生じる。それは、季節には意味がないからである。神は意味を与え、与えられすぎて、偶像が無数に作られ、複製され過ぎてしまった。それに対して季節はどうだろう。我々は季節に何も期待することがない。天候についてはお天道様や天気予報士に期待するはずだし、春の到来については月日の流れや暖気に期待するはずで、季節そのものに対して何か期待をすることはない。期待できないものには、意味など存在し得ない。

季節のふるまいについて最も特筆すべきことは、gradualな変化と、それがもたらす余韻にある。季節は明確な境界を持たない。どこまでが冬で、どこからが春なのか、我々はそれを知る、という地点に到達することができない。その季節の徴を認識した時点を結節点と仮定できるにせよ、その特徴がいつ到来したのかという事実を断定できるはずもない。しかも、あらゆる季節は言いようによって、二十四節気にもなるし、四季にもなるし、常夏にもなる。故に季節の変化はgradualなのだ。

また、季節はそのgradualな変化によって、常に余韻を持っている。content、つまり中身、意味、価値、信念といったものの複数化(contents化)、過剰化という問題は、ある種の速さに由来している。それに対して季節は、原始時代も、言葉が高速で駆け抜ける時代も変わることのない、緩やかにたゆたう遅さを持っている(厳密には持っているのではなく、世界に溢れる「あいだ」の関係性上、そうなっている)。季節のgradualな変化は、世界に余韻と味わいをもたらす。余韻というものがなく、すべてが鮨詰めになってしまっては、豊かさは生まれ得ないということ。

よって季節は創るのでも、選ぶのでも、導くのでも、研ぎ澄ますのでもなく、あらゆる事物の「あいだ」に流れる内なる音楽が、勝手気儘に鳴るのを媒介する、意味も、境界も、密度もない、mediumである。

漸く本題に着手する。以上季節の性質とふるまいを、我々人間に、言葉に、敷衍する。ここからは実践のための言葉である。

content(中身)からmedium(媒体)へ

ここでの課題は3つある。

①自我とは何か。
②我々は「あいだ」に立脚し得るか。
③mediumとして何をするか。

順番に見ていく。だが、それと共に、我々は辞めなくてはならない。見るということを。

①自我とは何か。

我々は自我というものに踊らされている。自我の存在を確信しているものは、自我を神格化するしか道がなく、自我が虚無であることを確信しているものは、超自我(自我ではないもの)を神格化するしか道がないように見える。だが、これは自我を誤読しているように思われる。

端的に言うと、自我は、季節とほとんど同一の性質を持っている。自我は、contentを持たない空虚であり、空虚故に普遍であり、絶対的に孤独であり、無視され得るmediumである。ここでは自我の誕生に遡ることを待たずに、自我というものが仮設的であることを直感するところから始める必要がある。自我は「あいだ」を認識することで形成されてきた。私と他者が異なるものである、という直感は「あいだ」を認識することに他ならず、この「あいだ」を自己参照することで、心身が分かたれ、自我と超自我(自我でないもの)が分たれた、ということ。「あいだ」による仮設こそが自我の虚無的な本質であり、寝るか、狂うか、死ぬか、それらの状態の他は「あいだ」として媒介することをやめない。この空虚な連続性。自我という仮設はまさしく季節的なのだ。

自我が仮設されたmediumであるということ、この地点に接すると見えてくることがある。それは、我々の自我は、contentを所有することができないということと、その絶対的な孤独故に、contentには立脚し得ない、ということ。ではどこに立脚すれば先に進めるか。それはまさしく、「あいだ」なのではないか、というのがこの序文によって、我々が到達する最後の領域だ。

② 我々は「あいだ」に立脚し得るか。

冒頭、「参照しないこと」がこの主題の鍵を握るように思われると言ったが、ここでその真意を明らかにしておこう。参照はcontentへの立脚である、というのが結論だ。既に我々は、この域を超えられるかどうかについて議論しているので、参照をするべきではない。ここで、参照とmediumは共に他者的なものを扱うという点でよく似ているために、同一のものなのではないか、という疑問が生じ得る。これに対しては、参照はmedium的ではなく、media的なものである、と応酬したい。参照は常に複製可能だからだ。複製可能なものは、必ず複製され、消費されてしまう。medium的なものはそうではない。contentを持たない空虚であり、空虚故に普遍であり、明確な境界を持たず、絶対的に孤独であり、無視され得るmediumは、複製されることがない。複製する価値がなく、また、複製する内容も、方法もないからだ。これでは消費のしようがない。

「あいだ」に立脚するということ。これは完全に手探りで、ごく最近直感した発想なので、この具体的な方法と意義については、はっきりとその全容が見えていない。今の時点で言えることがあるとすれば、季節がそうであるように、我々の意識や自我は「あいだ」によって作られてきたものなのだから、「あいだ」に立脚する方がより自然なのではないか、と言うこと。あとは黙って季節を実践する。いずれにせよ、生きることだ。

③mediumとして何をするか。

自我はcontentを所有できない。medium的に世界をまなざし、媒介し、そして忘れるだけである。しかし、contentが捏造され、無限に複製され、消費されていること(contentsという狂気)について、mediumとして、ただまなざしているだけでいいとは思えない。何かを所有していると思わされていること、これに加担している連中は全員犯罪者か何かのように見える。自我を誤読することがなければ、人間を曲解することがなく、また馬鹿げたことを繰り返さずに済むはずだ。ほとんどの人間は何か発信をして、自我を、自分という存在を認めてもらわなければならないと考えている。だが、それはmediumたる人間存在のすることではない。それでは凡庸性も普遍性も全然足らず、いずれ権威に至るか、虚栄心の権化になってしまう未来しかない。繰り返すが自我はcontentを所有できない。故に我々はcontentsを作り出せないし、作り出す必要がない。我々が作り出すのは、最も苛烈な「生の言葉」であり、虚無というmediumとして媒介する「意味も、境界も、密度もない言葉」でなくてはならない。無価値故の無限性を持つ、「あいだ」からの言葉でなくては。

以上だ。

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