風鈴(日記)
やっと秋になった。空の青が澄んで、羊雲、うろこ雲、巻層雲など、雲の表情がくるくる変わる。晴れていても暑すぎず、空気がサラッと爽やかだ。
毎年この時期になると洗濯に忙しい。夏物を洗って干して、長袖に風を通して、親から有難くもらった、いくばくかの着物を虫干しする。家族5人分の布団を入れ替えるだけでもなかなかの重労働。まして、平日は仕事で布団やシーツの大物は洗えないから、週末で晴天の日は、ひたすら洗濯物を干すことになる。
ベランダで洗濯を干していたら、どこかで風鈴がリンと鳴った。
あ、と思った時には新潟の光景が浮かんでいた。先月訪れた、上越ゆかりの日本画家、小林古径が住んでいた家。移築された素敵な日本家屋には、広々した庭に面した縁側の軒下に、鋳物の風鈴が吊り下げられていた。
ガラスより重みを感じるその音は、澄んだ音色でチリ、リリ、リーンと風に揺られて涼を運んでいた。
我が家のベランダで聞こえた風鈴は、どこに吊られているのか姿は見えないけれど、音の響きからやはり鋳物の風鈴だろうなと思う。お寺の鐘の音にも似た、空気を震わせてしっかり届く音。
思い返せば、確かに以前にも風鈴の音をベランダで聞いたことがあったが、それほど気にも留めていなかった。
今になってはっとしたのは、小林古径の風鈴を連想したからだ。
旅行の想い出と風鈴の音は自分の頭の中で結びついている。古い家の縁側と芝生の緑、友人とのお喋り。ゆったりした時間が丸ごと風鈴の音と一緒に蘇ったから、はっとしたのだ。
小林古径の家を訪ねたのは、様々な偶然が重なったからだったが、ひとり旅の時は昔から心の赴くままに行き先を決めていた。時々、偶然は思いがけないくらい得難い経験をくれるから面白い。自由な旅は、自分なりのこだわり。
これからは風鈴の音を聞いたら、きっと上越の旅を思い出すだろう。
ふと文化とは、連想なのだと思った。昔の人は、散る花を見て亡き人を思い、歌を聞いてふるさとの情景が浮かんだりしていた。
現代の人もそれは変わらず、星を見て旅行で見た景色を思い出したり、あるいは宇宙の何処かにいるまだ見ぬ生命体を想像したりする。おいしいラーメンで、一緒に食べた友達のことを連想するのを文化と呼ぶかは解らないが、五感で感じたことが他の記憶やアイデアと結びつくのは、とても人間らしい、文化的行為なんじゃないだろうか。
いつか、今より秋をゆっくり過ごせるようになったら、我が家の軒先にも風鈴を吊るしてみたいと思う。
今日はこの辺で。それではまた。
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