芸術の秋
先々週くらいから自分のツイッターのTLでちょこちょこ目にした話題に、今夏JR福島駅前に設置された現代美術家のヤノベケンジ氏の作品『サン・チャイルド』の炎上→撤去騒動があった。
ことの経緯や今後の対応の是非は当事者やアート論壇に任せるとして、一連の議論を眺めていて僕が抱いた偽らざる所見は「しかしまあ、”原子力エネルギーはいかんよね”みたいな、言っちゃ悪いが手垢の付きまくった大ネタをこんなに臆面もなくストレートに扱えるなんて、良くも悪くもすごい胆力、力業だよな……普通もうちょっとこう霞ませたり滲ませたり、隠しテーマ?みたいにしない?そっちの方が個人的にはかっこいいと思うんだけどなあ。」というものだった。
芸術家が「反核(反原発)」をはじめとした「反戦」「反権力」「反資本主義」「反権威」「反差別」あたりの「今の世の中を支配的に構成しているシステムやルールへのアンチテーゼ」をテーマに創作活動をしがちことは、その心中に少なからず反骨精神を宿すゆえの生態なのだろうし、事実として「今も昔も洋の東西を問わず、作家として正面から取り組むに値する普遍性のあるテーマ」でもあることを僕も否定はしない。(僕の嗜好にフィットすればもちろん「かっこいい!」とも思うし)
と同時に僕の心中から、上記の「反〇〇」さえテーマとして扱っておけば、アート界隈━━作家、批評家、画廊、学芸員、愛好家、etc.で構成されるクラスタ━━では怒られが発生しなかったり、ネタ切れの地獄を免れたり、あるいは界隈内で「こっち側」と認識されて外部の批判や糾弾から守ってもらえたり、といったある種の忖度が発生しているのではないか?という疑義を完全に拭うことは難しかったりする。
ヤノベケンジ氏は僕が高校生だった20余年前からアート誌やカルチャー誌でたびたびその名や作品を目にしたし、もちろん現在も一線で活動を続ける著名な現代アート作家だ。それゆえに、ヤノベ氏自身やその作品群、キャリア、それらにまつわる評価等は(ヤノベ氏自身はそう望んでいなくても)ある種の「権威性」を帯びてしまっているのではないかだろうか?
だとしたら、『サン・チャイルド』という「原子力を自明的に批判する現代アートの権威の象徴」が、福島市民や福島県民やそこに寄り添う人々の前に文字通りの意味で立ちふさがり、そして忖度されることなく拒絶されたという一連の経緯が、非常に批評的なアート現象として意味と像を成し、観測することもできなくはないかもしれないと思うこともやぶさかではないぅんちょこちょこちょこぴーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー。
ひどくステレオタイプな、脳内アート界隈人がいかにも言いそうなことを書いてしまって急に恥ずかしくなってきた。これも美大卒の人間の宿痾なのだろうか?(唐突な美大OBアピール)
あーヤダヤダ、これもみんな芸術の秋が悪いんだ。
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