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死にたい理由は何だろう

私は現在、大学を中退し実家で引きこもり生活を送っている。学校にも会社にも行っていない。

衣食住が保証され、何の苦労も無いはずなのに毎日死にたがっているのは何故だろう。

ただ生きていることがつらい。カーテンから差し込む朝日が哀しい。ひやりと冷たいフローリングが恐い。

ペンを持つ。何だか悲しくて涙が出る。割引の惣菜をレンジで温めて食べる。お出汁が効いていて美味しくて、また涙が出てくる。花が綺麗に咲いていて、また涙が出る。毎日こんなことの繰り返しだ。

思えば、生まれてきたことが間違いだった。障害と醜い顔をもって生まれた私は、物心ついた頃からいじめの標的だった。

『下着を見せないと仲間に入れてあげない、と虐められていました。』幼稚園の担任と母親の交換ノートに書かれていた言葉だ。これを読んで母親は何と思っただろう。その時の記憶はないが、こんなことをされるような子供に生まれてきて、親に対して申し訳ない気持ちでいっぱいだ。

小学校に進学してからも、障害の特性で周りに馴染めず、いじめの標的になっていた。

私には弟がいて、彼もまた同じく障害を持っている。彼と私との違いは、障害が検査ではっきりと分かるか、そうではないかだった。彼は前者で、私は後者だった。

もしかすると、私も障害だと診断されていたのかもしれない。それがはっきりと分からないのは、両親が弟に障害があることを本人に隠していたからだ。「自分に障害があると分かると、本人が辛い思いをするかもしれないから」母親は良かれと思っての行動だったが、もし私に障害があると分かっていたのなら、はっきりと伝えて欲しかった。私のつらさの正体を教えて欲しかった。私がどういう障害を持っていて、何が苦手で、どうすれば生きやすくなるか、それを知っていたら、今こうなってはいなかったかもしれないと思うと、つらくてたまらない。

「おかしい子」「普通じゃない子」「みんなと同じに出来ない子」だった私は、小学校で虐められ、中学でも虐められ、高校に入っていじめが無くなっても、フラッシュバックと被害妄想に苛まれ、部活がつらくなり、心療内科を受診した。

「適応障害ですね」 そう告げられた時、私は許された、救われたと思った。私ができないのは私が駄目な人間だからではなくて、病気のせいなんだ。診断書という免罪符を退部届に添えて提出し、私は部活を辞めた。

大学に入り、しばらく経ってゼミが始まると、自分の理想の高さと能力の低さに苦しめられ、同時にアルバイトと趣味の活動でもトラブルがあり、大学を休んでアルバイトも趣味も辞め、家で死んだような日々を送った。

しばらく経って、心療内科へ通い、そこで鬱と適応障害の診断が下りた。治療を行い、復学した後の夏休みにアルバイトを始めた。

そこで出会った元恋人に暴行を受けた後に捨てられ、アルバイトにも学校にも行けなくなり、ついに退学した。

辛いことばかり書き出してきたので陰鬱な印象を受けると思うが、良いことも沢山あった。今となってはあまり思い出せないが……。

長々と書いてきたけれど、要は発達障害といじめで人格が歪み、克服できず過去に苛まれているだけだ。障害を持っても、いじめられた過去があっても、立派に生きている人は大勢いる。私は、その大勢の内のひとりになれなかった。

今は強い希死念慮がない代わりに、より良く生きようという気持ちもない。頑張って克服しようと足掻いていたオーバードーズも再開するようになってしまった。

もういい。もう生きていても死んでもどうでもいい。明日死にます、と言われても、いつも通り今日を消費して明日を待つ。

数少ない友人に対しては、こんな私でごめんなさい、と申し訳ない気持ちでいっぱいだ。両親に対しても、出来損ないの癖に生まれてきてすみませんと謝るほか無い。


早く死ねますように。



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