『ダンダダン』と自己創出システム
インフルAによる悪夢はまだ続いていて、今朝は「こども民藝」の企画について頭の中で延々議論が続いていた。外部からの刺激がなくとも、内部でこうした情報の生成が起こる神経系システムが、第三世代のシステム論と言われるオートポイエシスの着想につながるわけだが、まさにオート(自己)ポイエイシス(制作)という語源通り、自己産出し続けるシステムが暴走して、たまったもんじゃない。
同じインフルA罹患中の娘にも聞いたら、彼女は延々頭の中でパーティが行われているらしく、それなら楽しそうだが、こちらは常に仕事関係だから、本当にげっそりしてしまう。せん妄状態のときには、「これは仕事に使える!」とか思ったりもするのだけれども、冷静な頭になったときには、それがまったく役立たないアイデアだとわかって、二度げっそりしてしまう。
話は唐突に変わるのだが、『ダンダダン』のアニメを見て、そのスピード感あふれる表現のすごさにびっくりした。一話目のクオリティが特にすごく、漫画版を見直しているんだけど、ここをああいうふうに拡張するのかと驚くことばかりだ。たとえば、主人公の桃が廊下を歩くところなど、漫画の一コマが、なぜか二度かぶせる笑いにつなげている。
この『ダンダダン』に限らず、もともと原作者がアシスタントをしていた『チェンソーマン』もそうだが、過激な性的表現への挑戦が際どい。表現としては卑猥になりかねないところを、ギャグとアクションですり抜けようとする。すり抜けられているかはわからない。不快に思う人も多いと思う。しかし、宇宙人セルポ星人の「男性ばかりで感情を失った」という設定から推測するに、感情の湧き起こる源泉として、性を重視しているのだというのがわかる。
さらに、主人公の桃は超能力を発揮して自ら窮地を脱するし、そのくせ高倉健が好きだという旧来のジェンダー観を抱えていたりするし、オカルンは男性らしさの対極にある設定ですぐに去勢されてしまう。妖怪ターボババアは、性欲の塊として描かれつつ、一方で無念のまま亡くなった少女たちを弔うという設定で、事態は複雑に絡み合っている。ここには、性に関する意図的な錯乱状態が演出されている。
アクロバティックさらさらの物語として、ときには援助交際をしながらのシングルマザーの苦しい生活を語るとき(ちなみに、アニメ版ではオブラートに包んでいるところがあり、漫画版はもっとひどい)、作者は女性の理不尽な境遇に対する共感を隠さない。続くエピソードで展開される男性らしさのストーリーの熱量とは、まったく違うのでびっくりした人も多いだろう。
問題は、こうした性の錯乱状態や、虐げられた女性に対する共感というものが、性的表現の免罪符として使われているのではないかという、異議申し立てに対して説得力のある反論ができるのかということだろう。それは正直、今の段階ではわからない。この違和感は、たとえば鬼滅の刃での過激な表現にも感じたところで、鬼滅は作者が女性であるということが最大の免罪になっていたが、今回は男性なのでどこまで許されるのかわからないところだ。
ただ、彼らは安全な表現によってそうした議論を避けようとするのではなく、そこに創作のエネルギーの源泉を感じていて、果敢に挑戦しようとしているのだろう。そしてそこには、オートポイエーシスではないが、自己産出的な表現システムが動いているようにも見える。『ダンダダン』を見続けているうちに、私たちは『ダンダダン』の世界の中に取り込まれ、そうした性的に捉えられる表現に対する別の感性を持ち始めているようにも思うのだ。私たちは、『ダンダダン』という悪夢に取り憑かれつつある。
小山龍介
BMIA総合研究所 所長
日本ビジネスモデル学会 BMAジャーナル編集長
名古屋商科大学ビジネススクール 教授
京都芸術大学 非常勤講師
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