真正性の〈脱神話化〉と起源の選択
それが本物であるかどうかという真正性(オーセンティシティ)は、近年、さまざまな領域で議論されてきた。まず、真正性を担保する要件が整理され、例えばそれがオリジナリティやリアリティなどであるとされた。これは、偽物を見分けるための議論であった。観光領域においてこうした真正性を最初に問題としたのはブーアスティンで、イメージとして創られた、現実とは異なる観光体験を「疑似イベント」と呼んで批判的に捉えた。ショーとして上演される伝統芸能は、もはや生活の中で行われるときの真正性を失っているのだというのだ。
しかし、この真正性と疑似という二項対立は、それほど単純なものではない。たとえば能は、その起源をたどれば田楽などの、地域の信仰とも結びついたローカルなものであったのが、時の権力社たちをも観客とすることによって洗練され、世阿弥により能楽として大成された。この能楽に、いまでは誰もが真正性を認めるところとなっている。
先日訪問した北海道白老の民族共生象徴空間ウポポイで見たアイヌの伝統芸能も、観客の前で繰り返し上演されることによって、ある種の洗練が起こっているようにも見えた。これが、新たなアイヌ文化の「創造」のひとつとして、すでにこのウポポイの役割の中に組み込まれていることは、以前の記事でも指摘した。
「正真正銘の本物が存在するはずだ」という観光における真正性は、さらに〈脱神話化〉されていく。真正性はホストとゲストの間に生まれるものであって、文化観光の展示やショーの内容にはよらないという指摘だ。すこし極端な例を出せば、地域の特産物とはぜんぜん違う、たとえば輸入物の食材でおもてなしをしたとしても、そこにホストの歓待する気持ちがあり、ゲストがそれを本物だと感じたのであれば、そこに真正性が生まれるのだという議論だ。
ここでの真正性はゲストの主観に依存する。これをさらに推し進めると、ディズニーランドの真正性についても、太鼓判を押すことができる。たしかに私達は、門をくくった瞬間に魔法にかかる。それがこの世の中に存在したこともない架空の世界であっても。
写真表現における真正性
写真において、浅田政志の「浅田家」は、そうした真正性に挑戦したものと捉えることができる。消防士に扮した浅田家のメンバーは、家族であるという事実ひとつとってみればまったく正しい。また消防士に扮する写真を撮ることのできる関係性であることも、真正性を示す。しかし肝心の「消防士である」ということがまったくの嘘であり、写真ではいかにも嘘っぽく演出され、嘘であることを隠そうとしない。
ヒーロー物の衣装を着た家族写真ではさらに事態は捻転する。ヒーロー物のショーは、表舞台では演出された疑似イベントであることは間違いないのだが、その舞台裏の休憩場面は、むしろ本音を吐露する本物の瞬間だとして、たとえば観光においてもバックステージツアーが価値をもったりする。そうしたリアリティのある場面をあえて疑似イベントとしてひっくり返すのである。
証明写真機などを使って多様な人物になりすます澤田知子も、こうした真正性をひっくり返す写真家のひとりだろう。私達が「ほんものだ」と思っていたものが、簡単に崩れてしまうその脆さを感じさせる。演じ分けている人物の、どれが本物の澤田知子なのか。実存の不確かさを垣間見ることができる。
写真こそ、長い間、それがフェイクなのか真正なものなのかが議論されてきた。有名なパリのキスするカップルは演出だったし、ロバート・キャパが撮影した「崩れ落ちる兵士」はただ後ろに転びそうになった兵士だということが後年判明した。その真正性を追求する熱情を逆手にとったのが、浅田であり澤田であった。
起源を選び取る
実際に新規事業や地域活性化の実務に取り組んでいる立場からすると、こうした真正性のあやうさを受け入れたうえで、自身の起源を主体的に選択して、そこから神話を紡ぎ出すことが重要だと思っている。
近々、ある地域の神楽を視察に行くことになっているのだが、これは明治から大正、昭和初期のお神楽の流行の中で、地域が始めたものだ。それが、今や伝統芸能として指定を受けているものも少なくない。彼らの想定する起源は、事実として明治から始まったということよりも以前の、もっと長い歴史を持つものを引き継いでいるという自覚があるのではないかと思う。
新規事業においても、今や誰も会ったこともない創業者の思いが、事業の根底をなしていることが少なくない。大企業における新規事業は、その企業の従業員・ステークホルダーが共有する神話を背景にすることで、パワーを持つ。この「パワー」はなかやまきんに君のように発音してほしい。こっけいであり、けれども真剣なのだ。
世阿弥は能において、その起源を秦河勝においた。これは事実ではない、架空の起源だ。しかし、そのことに異様な関心を払ったのが梅原猛であった。能に、聖徳太子の片腕であった秦の怨念という通奏低音を聞き取り、政権の座から追われる平家物語に多くの題材を取った世阿弥の悲痛を読み取った。ここには、世阿弥の心象ととしての、まごうことない真正性があらわれている。
「わたし」というものの真正性は、このように獲得されるものなのではないか、というのが、ここ最近考えていることである。
小山龍介
BMIA総合研究所 所長
名古屋商科大学ビジネススクール 教授