クールなYouTubeと兵庫県知事選挙
今回の兵庫県知事選挙では、SNSが大きな役割を果たしたことは、否定しようがないだろう。テレビや新聞を始めとした既存メディアが、「報道しない自由」などと揶揄されるような恣意的な情報の取捨選択をしていると捉えられた一方で、SNSは一次情報にアクセスできる、高い透明性を担保していて信頼できるのだと主張する人もいる。
しかし、SNSの信頼性が高いなどとは、まっとうな人であれば思わないだろう。既存メディアが信用できないというのは同意しても、だからといってSNSは信頼できるなんてことはない。フェイクにあふれた、粗雑な議論が展開される無法地帯。Xを始めとしたSNSの一般的な評価は、そのようなものになるはずだ。
にもかかわらず、多くの人が今回、SNSを見て蒙を啓かれた思いをしたのだ。「YouTubeをみて真実を知った」というのが、典型的な彼らのコメントだ。これを見て、いわゆる「知識階級」の人たちは、「どうしてそんなフェイクに騙されるのか」と嘆いた。彼らにとって文字メディアの衰退は文字さえも読めない人が増えたからであり、わかりやすい動画への傾倒は知的怠惰であった。しかし、そういう話ではない。
私の見立てでは、動画の、それも音声にこそ、その秘密があるように思う。今回、百条委員会でのやりとりとされる音声(確証はない)が流出した。雑音が多くときおり聞き取れないその音声は、圧倒的なリアリティを帯びていた。この「圧倒的なリアリティ」は、聞く人が馬鹿だからそう感じたのではない。誰が聞いても、真実性を感じさせるリアリティがあった。
先に紹介したマクルーハンに、ホットなメディア、クールなメディアという議論がある。彼は、情報が低解像度であるため受け手が想像力を働かせないといけないメディアを、クールなメディアと呼んだ。ここではその議論に深く入りこまないが、そうして想像力をかきたて、解釈の余地を残すメディアが果たす重要な役割―共同体を形成するという役割―に、マクルーハンは着目した。
マクルーハンのいうクールとは、「冷めた」とか「冷静な」という意味ではなく、当時の若者たちが使い始めた俗語としての「クール(かっこいい)」である。マクルーハンはそれを、「状況ヘの関与と参加」と読み替えた。今で言えば「かわいい」である。多義的なかわいいは、見るものの解釈に委ねられている。
20世紀、機械工学の世界から電子工学の世界に移行する中、彼の眼には、メディアそのものが変わっていくように見えた。完璧に作り込まれたホットな映画に対して、当時まだ解像度の低かった電子的なテレビは、解釈の余地が多分に残るクールなメディアであった。旧来のホットなメディアよりも、新しい不完全なクールなメディア。それにより人々がコミットし、そこから新しい部族社会が生まれるのだと考えた。
もしマクルーハンが現代に生きていて、作り込みが甘くクオリティの低いYouTubeを見れば、クールだというだろう。一方、高度に編集され作り込まれたテレビ番組は、ホットだというかもしれない。視聴率的にはメディアをホットにしていくのは正しい。しかし、今回政治を動かしたのは、(その真偽の判断を受け手に委ねている)うさんくさい、がゆえにクールなYouTubeだった。
テレビ業界の人達は、クオリティの低いYouTuberのコンテンツをバカにした。しかし、マクルーハンに言わせれば、その低クオリティこそが、人々を引き込むことになったのだ。朝のルーティン、化粧動画、内輪受けのどっきり、そのすべてが低クオリティで、だから見入ってしまう。まだ、テレビ的感覚の抜けなかった中田敦彦は、高コストをかけてテレビ的コンテンツ「WinWinWiiin」をつくったが、コストをかけた割に再生数は伸びなかった。
今回の兵庫県知事選挙は、真偽の判断が視聴者に委ねられた「クール」なメディアが多くの人を引き込んだ結果であった。多くの「知識人」が「あんなものに騙されるなんて」と言ったが、「あんなもの」だからこそ、多くの人が真偽の判断を委ねられ、そこで自ら判断して信じていったのである。
小山龍介
BMIA総合研究所 所長
名古屋商科大学ビジネススクール 教授
京都芸術大学 非常勤講師