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外国語での思考と批評の異文化交流

今日は京都芸術大学での地域文化デザインゼミでの批評発表会。留学生、特に中国からの留学生が多く、しかし批評レポートはもちろん日本語での提出。どこまでしっかりとした批評が提出されるか、少し不安でもあった。日本語はそれほど流暢ではない学生も多く、そうなるとどうしても、比較的簡単なやりとりに終始してしまうことが多い。修士レベルの論文の執筆ができるのか、正直、確信が持てなかった。

しかし今日提出してもらった批評は、非常に優れたものが多かった。映画の批評であれば、それが映画のパンフレットに載っていてもおかしくないレベルのもので、なるほどこのようなことを問題意識として持っていたのかと、ハッとさせられた。

学生たちには今回、まずは中国語で書いたうえで、翻訳ソフトを使って翻訳してよいという指示を出した。現状の日本語能力が思考の限界とならないよう、そうした。私自身も、アメリカに留学しているときに、このような言語と思考の問題に直面した。英語で意見を言うと、まるで小学生の感想文になってしまうのだ。語彙も少なく、表現も稚拙。日本語で深いことを考えたとしても、それがすぐに英語に翻訳できず、常にもどかしい思いを感じていた。その制約を取り払ったときの、彼らの思考を見てみたかったのだ。

外国語が身についてくると、今度はその外国語で考えることができるようになる。今では英語で考えながら英語で話すことができるが、そうなると今度は英語的なロジックで考える、ということができるようになる。外国語を学ぶ利点はここにあるだろう。日本語の、主語が曖昧な言語がもつ、ふわりとしたロジックにもとづく思考プロセスと、主語をクリアにしてはっきりと言い切る英語の思考プロセスとを使い分けられるようになるのだ。

カントが、外の客観的世界には直接アクセスできないというふうに切り分け、問題を人間の認識のほうへと切り替えた認識論的転回から、さらにその認識が言語体系によってなりたっているとした言語論的転回。日本人は何十種類もの「雨」を表す言葉を持っているからそこ、雨を見分けることができるように、また「緑」と「青」とを区別しない言語においてはそのふたつが見分けられなくなるように、言語がわたしたちの認識を支えている。

いつも不思議に思うのが、蝶と蛾いずれもパピヨンと呼ぶフランス語だ。正確には、蛾はPapillon de nuit(パピヨン・ド・ニュイ)=夜の蝶というらしいのだが、日本語では明確に違う単語を使っている蛾に対して形容詞で処理しているあたり、蛾に対する認識もきっと違うのだろうなと思ったりする。

いずれにしても、この言語の違いに、世界認識の違いが現れ、実はこれが批評においても需要な役割を果たすことになる。日本の大学にきたからには、日本語での表現をしっかりと身に付けてほしいということもあるが、一方で批評や制作において、むしろその言語切り替えによる多面的な認識が、重要になるように思う。そのためにも、そのモードを意識的に切り分けることが重要になるだろう。

今日は、蔡國強の「天梯」を取り上げた学生がいた。これは500メートルもの高さをほこるはしご型の花火によるインスタレーションで、夜明け前の夜空にたった150秒間、美しく燃えるはしごが出現する、なんとも幻想的な作品だ。この作品は、イギリス、アメリカなどで何度か失敗したのち、蔡國強の故郷で、祖母の100歳の誕生日に合わせて実施され、みごと成功を収めた。福建省では特に家族の絆が強く、また古くは不老長寿の薬の発見のためにも使われた火薬によるこのインスタレーションは、中国人にとって重層的な意味を持っていた。今日は、そんな文化的背景も聞くことができた。

しかし、そうした文化的背景の意味も、日本人が読む想定で書くからこそ、でてくるものでもある。同じ中国人同士であれば、当たり前過ぎて書く必要もなかった文脈だろう。批評というのは、そうした文化的な文脈の差異にも気付かされる営みでもあった。

小山龍介
BMIA総合研究所 所長
名古屋商科大学ビジネススクール 教授
京都芸術大学 非常勤講師

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