山姥の寂寥感のリアリティ
宝生能楽堂での能の発表会は、本当に貴重な機会だ。素人でありながら、プロが実際に能を行う舞台に立てるのだ。その緊張感たるや、日常ではまったく味わうことのないものだ。今回、発表会に参加したオンライン謡隊(うたいたい)のメンバーは、普段、社長業をやっているのだが、そこでさえも経験できない体験だと語っていた。
その緊張感のなかで、精神状態も変容する。神楽に、岩戸神話を原点とするシャーマニズム的な文脈が加えられたのは吉田神道だが、そのとき能楽の翁とも関連づけた。能楽、とくに観阿弥作の初期の能を見るとき、その祝祭性や呪術性を実感した。役者は、いわばシャーマンなのである。
今回の舞囃子『山姥』では、自分をそうしたシャーマンであると思いこむようにした。山姥を今ここにおろし、山姥になりきって演じる。能においては、かならず型を守るところから入るので、感情を先に作るわけではない。その仕組みがここでは生きてくる。とにかく、超自然的な山姥の存在感を表す舞いに没入することによって、山姥をおろし、その感情を召喚するのである。
たとえば、「妄執の塵が積もって山姥になったのだ」という詞章に、サシ廻しという所作があてられている。サシ廻しとは、扇で対象を指し示し、その扇を水平にぐっと動かし、見渡すような動作を行うものだ。この妄執の塵を指すその扇を、先生はとにかく「ゆっくり」動かすように指示する。この「ゆっくり」が重要で、この動作によって、山姥の後悔のようなもの、しかし避けることのできなかった宿命のようなものが、浮かび上がってくる。その心持ちが、今回の本番で、急にぐっと胸に迫ってきた。
そのうえで、「山廻りして行方知れずとなった」という最後の詞章では、頭へカザシ下に居、という所作になる。扇で頭を隠すようにしてしゃがんで膝をつくのである。行方知れずとなったという場面が、この所作で表現されているのだが、そこでの山姥の寂寥感が、これもまた練習では感じられなかった強さで、込み上げてきた。
今、今回の発表会の懇親会中で、あまり振り返る時間がないのだが、取り急ぎ、メモとしてこのことを書いておきたい。とにかく、形から入ることによって生まれるこうした現象に、能の面白さがあるのだと思う。
小山龍介
BMIA総合研究所 所長
名古屋商科大学ビジネススクール 教授
京都芸術大学 非常勤講師
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小山龍介のビジネスモデルノート
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