過去への憧憬が、未来を切りひらく
AIの登場によって、いよいよ人は考えなくてもすむようになるのかもしれない。部下に仕事を頼むよりもAIに頼んだほうが速いし、品質もよい。コンサル業界では、AIによって若手の育成機会が奪われていると聞く。高い給料も取らず、やり直しさせても文句も言わない。無尽蔵の体力を誇るAIに頼みたくなるのは、当然といえば当然だ。
今日は、そのAIのことではなく、そこで失われる人類の能力について考えてみたい。文明が進むことによって、人間はどんどん、その能力を失っていったという議論がある。たとえば、デズモンド・モリスは『The Naked Ape』で、狩猟採集時代で必要とされた本能を、現在の人間社会では抑えなくてはならなくなったという議論を展開している。
確かに、おそらく狩猟採集時代には、危険察知のために最大限に使っていた聴覚、嗅覚などは、ずっと意識の奥に後退してしまった。複雑な文化的な振る舞いが求められるなかで、さまざまな抑圧を抱えるようになった。この『The Naked Ape』(=裸になったサル)から影響を受け、それを批判するかたちで書かれたのが、栗本慎一郎の『パンツを履いたサル』である。パンツを履くから裸になれたという、いわゆる文化―生物共進化の議論を展開した。
と今日は、その栗本慎一郎の議論に分け入るのではなく、そこで失われる人類の能力について考えてみたい。私たちは、実は現在進行形で能力を失いつつある。AIの登場によって、いよいよ考える力を失うかもしれない。そういう話だ。
明治期、江戸から続く滑稽本の伝統や漢文学の知識を背景に、夏目漱石や森鴎外が小説を書いたが、それはしばらくするとすっかり失われてしまった。漢文に依拠する森鴎外の文章は、もはや現代人には読めないものになってしまった。西周の翻訳である演繹(deduction)、帰納(induction)は、そうした漢文知識によるものであったが、パースが提唱したAbductionは、アブダクションとカタカナ表記するしかない。パースは19世紀に活躍した記号学者だが、翻訳されたのは1980年代以降、そこでは漢字二文字で翻訳する文化的基盤はすっかり失われてしまった。
明治維新と第二次大戦。このふたつの出来事が、日本において大きな文化的断絶を生んだ。その前後で、以前の文化基盤を持つ人とそうでない人が生まれた。そして断絶後の人たちは、断絶以前の人たちのすごさに、コンプレックスにも似た感情を抱くことになった。過去の人たちは自分たちにない大きな文化的基盤がある、という意識が強まっていくと、さらに過去には自分たちがもはや獲得不可能な巨大な文化資産があるのではないかという、妄想にも似た憧れを抱くようになる。
たとえば孔子は、周代に行われたという統治を理想とした徳治主義を主張した。しかしその理想は孔子の時代に実現することはなく、またその後もついぞ行われることはなかった。しかし、その周代へのあこがれは、朱子学、陽明学と形を変え、遠い日本の政治思想へも大きな影響を与えた。過去への憧憬が、未来を切りひらいたのである。
私たちは、未来に新しいものがあり、そこへ向けて進化しているのだと考えがちであるが、実はこのように過去が私たちを未来に牽引していくこともある。過去にそのことが起こった由来に向かうことは、実は同時に、未来に向かうことでもある。企業の未来ビジョンを考えるときには、常にその企業が興った創業の精神に立ち戻ることになる。過去に向かうことで、未来に向かう。AIの登場によってさまざまな能力を私たちは失うことになるだろうが、そのことでかえって、過去私たちが持っていたものに対する憧憬が強まり、そこからAIでは導き出せない新しい未来がひらかれていくかもしれない。
能を通じて、室町時代に向かう。その能はさらに、始祖・秦河勝のいた飛鳥時代に向かう。能を学んでいるのは、そういう理由からだ。11月30日(土)に、東京・水道橋の宝生能楽堂で能の発表会がある。入場無料なのでぜひ足を運んでほしい。
小山龍介
BMIA総合研究所 所長
名古屋商科大学ビジネススクール 教授
京都芸術大学 非常勤講師
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小山龍介のビジネスモデルノート
ビジネスモデルに関連する記事を中心に、毎日の考察を投稿しています。
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