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サイバネティクスの杖
サイバネティクスにシステム理論を組み合わせ、その可能性を人間の精神(mind)にまで広げたのがベイトソンであった。サイバネティクスは、外部環境との情報のやり取りと、そこでの制御の理論であったが、ベイトソンはそこから、外部システムと相即する自己を想定した。彼の論考をまとめた『精神の生態学へ』のなかに、「“自己”なるもののサイバネティクス−アルコール依存症の理論」という論文があり、そこにこんな記述がある。
「自己はどこにあるか」「その境界はどこか」と誰に尋ねても、一様に混乱した答えがきっと返ってくる。あるいは、杖に導かれて歩く視覚障害者を考えてもよい。その人の自己は、どこから始まるのか。杖の先か、柄と皮膚の境か、どこかその中間か。こんな問いは、土台ナンセンスである。この杖は、差異が変換されながら伝わっていく系路の一部分にすぎない。それを横切る境界線は、当人の動きを決定するシステム全体のサーキットを切断してしまうものだ。
自己を、外部からの情報を瞬時に処理する主体として考えた場合、システムと自己との間には境界性が失われていく。これは、その後、オートポイエーシスのシステム論に(直接的な影響関係はないものの)つながるものだということは、先の記事で指摘した。
注意したいのは、単なる外からの刺激に対して機械的に反射的反応をするものとして自己を捉えたのではない、という点だ。ベイトソンのいう精神は物質的なニューロンネットワークではなく、情報のパターンや差異の集合体であった。予測のつかない変化をするものを制御するには、パターンで対処するしかない、というのが、サイバネティクスの到達した結論の一つだが、ベイトソンの精神は、まさにパターンを認識するものとしてあった。それは物質的なものでも、非物質的なものでもない、いわば物質と非物質の二元論を超えたものとして想定された。
もうひとつは、システム全体の中にこの精神が宿るとき、その精神はまさにシステム全体の相互作用の中から創発的に生まれるものだということだ。このホリスティック(wholistic)なアプローチが、ベイトソンのアイデアの特徴である。
このとき、同じように視覚障害者の杖で説明をしたマイケル・ポランニーを思い浮かべる。ポランニーは、杖の先を遠位項、手元の感触を近位項と呼び、遠位項へと意識を向けることで近位項の意味を、暗黙のうちに知ってしまう(tacit knowing)のだと考えた。そのとき、それはベイトソンの言うように差異の情報であり、ある種のパターン認識を伴っていることは、体験的に想像できる。また、杖と自分とを分けるのではなく、また杖を持っている自分と環境を分けるのではなく、主客をホリスティックに捉えることで、暗黙知が働きやすくなることも、想像に難くない。
このときにいつも例に出すのが、金庫の鍵を開ける職人の話である。金庫の鍵を紛失したり、番号を忘れてしまって、開かずの金庫になってしまったものを開ける職人がいる。その職人があるテレビ番組で、古い金庫を開けるときに、そのコツを次のように語った。「鍵を開けようとするのではなく、自分が鍵になって開けられようとすることが重要だ」と。
「杖を使って先を知る」のではなく、杖に当たる先の地面と一体になって環境を感じ取る。視覚障害者の例をあげるときにはいつも、ベイトソンとポランニーが同時に立ち上がってくる。ついでに、ウィーナーのアルゴリズムによる対空砲が空を指す。サイバネティクスの杖は、私にとってそうした世界認識の象徴なのだ。
小山龍介
BMIA総合研究所 所長
名古屋商科大学ビジネススクール 教授
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