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神はいるのか、いないのか(前編)

神無月。出雲の国へと旅立った神々は今頃何をしているのだろう、そろそろ着いている頃だろうが…

先月また一つ歳を取った。35。これで四捨五入的には正式にアラフォーに片足を突っ込んだことになる。

子どもの頃は誕生日が待ち遠しく、とにかくソワソワしながら前日を過ごし、当日は晴れ晴れとした清々しい気持ちで過ごしたのを思い出す。それが三十も半ばになると四十を前にして、やれ介護保険料だ、今後の身の振り方はどうするかだ、と色々現実的なことが容赦なく降りかかってくる感じがして目まぐるしい。加えて34のラストを老いや死などについて考えながら過ごしたものだから(以下参照※)、九月はほとんど老いについて目についた様々な書籍を読んで過ごした。とはいえ、かなりバイアスがかっている選書だが。

友人にそのようなことに向き合うのは時期尚早ではないかと聞かれた。そこで自身の行動についてその理由などを改めて振り返ってみて思ったのは、私はどうも老いや死、その概念を学んだりしようとしたわけではなかったらしい。というのも、これはある意味先人の知恵から学び得るこれからを生きる上での心構えでもあり、地図を持つのと持たないのではまた先の景色も違って見えると思えたのだ。

私は大人になる、ということについて疑問に思っていたことを解消したかった。

35は数字だけ見ても立派な大人だ。大人であり、大人でなければならない。しかし私にとって「年を取ると大人になる」は俄かに信じがたいことで、年を重ねても大人になりきれない人は沢山いるように思う。その逆、齢は若くして成熟した大人の考えを持つ人がいることも事実だろう。

私は大人なのだろうか、大人になりたいのだろうか。
これは精神の話かもしれない。

以前よく「品格」という言葉が出回った時期があった。武士は食わねど高楊枝。この価値観は現在どのように受け止められているのだろう…武士の高潔な精神を表す言葉だが、今では「やせ我慢」という意味に捉えられていることも多いのではないだろうか。

高潔:けだかくりっぱで、けがれのないこと。
やせ我慢:無理に我慢して平気を装うこと。 負け惜しみをして無理を忍ぶこと。

こうして意味だけを比べてみても全然違う印象を受ける。「やせ我慢」には何かマイナスな印象すら見て取れる。プライド、という言葉でさえ今はもうマイナスなニュアンスを帯びている可能性がある。

しかし私にはうまく言葉にできない「そうではないのではないか」という感覚がある。

以前持ち家VS賃貸という構造について以下の通り意見を述べたのだが(※以下参照)、その際、年齢を重ねたこの先の人生という観点から私は年を重ねると共に諸々を縮小していく、ということについて深く考えた。これは何も物に限ったことではない。

そこで品格、という言葉に結びつくような何かを自分が老いという事象に対して意識下で求めているのかもしれない、と思うに至った。品格と言ってしまうとたいそうに聞こえるのだが。これは誤解を生みそうな表現だが、ニュアンスとしては伝えたいことが多分に含まれているので敢えてこう書いてみる。要するに歳を重ねるほど「武士は食わねど高楊枝」を前向きに努めていった方がいいのではないか、というような感覚かと思う。皮肉っぽく言えば、前向きな諦めという名の受容、と言えるかもしれない。

ものを手放す。執着を手放す。それは精神のミニマリズムというような表現が出来るかもしれない。足るを知る。ないものねだりを止め、あるものに目を向ける。そういった事とも繋がってくるように思う。

もちろんこれは個人的な感覚であり、すべての人がそうあるべきだとは特段思わない。ただ私にとってはその方が生きやすく、またそのように歳を重ねるのが理想なのかもしれないという話である。

大人は無邪気であってはいけない。

本物の「大人」になるヒント
曽野 綾子

手厳しいなと思う言葉だが、なんとなく言わんとすることが分かる。
そこで様々な(大体8冊くらいこれに関して読んだ中から)先人の知恵を自分なりに咀嚼しながら大人について考えてみたいと思う。


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